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日記 #1

ふと思いついて、何日かの日記をまとめて投稿してみようかと思う。備忘したい欲がまた高まってきた。続かなかったらそれでも、の軽い気持ちで!あんまり長くならないようにしたいよー。

2022/08/27

ヌトミック、稽古をする。世田谷公園では祭り。たくさんの核家族を一気に見て、ギョッとする。少子化が嘘みたい。
グレイモヤβ。フランツからケビンスまでずっと面白かった。お笑い、というか、突飛なアイデアのショーケースみたいだ。メタフィクション漫才(車海老のダンス)。「「イカは正しい」で丸暗記してるから、タコが出てきたときに対応できない」で会場の全員、本当に全員が爆笑していた(ハチカイ)。

2022/08/28

昼間は住んでいるシェアハウスでイベント。縁日的なことをした。屋内では子供向けのワークショップをやっていて、来た親御さんと話していたら中学校の頃の英語の先生だった!10年ぶりの偶然、怖すぎ!近所にこれまで人生で出会ってきた「先生」が何人も住んでいる。

夜からバイト。PCを持っていきそびれて暇だったので、二村ヒトシの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになってしまうのか』を読んだ。AV監督だからなのかしらないが、ドキュメンタリー映画のようなすごい本だった。基本的にはダメ男にひっかかる女性を対象にした書き方がされているけれど、もっと広い射程で親密な関係のことで悩んでいたり、考えたいことがあったりする人に向いた書籍だと思う。
最近、占いとかハウツー本とかを読む巡り合わせだ。例えば、しいたけ占い、橋本治『シンデレラボーイ・シンデレラガール』、千葉雅也『現代思想入門』など。平易だけれど、人を変化させる言葉、言語芸術として、こういう類の書き物は成立していて、読み応えは軽いけれど、どうやって書かれているのか自分には全く想像できないという点で、惹かれている。

しばらく抜き書きが続きます。

幸せそうな人には、心の穴がないように思えるかもしれませんが、そうではありません。
自分を愛すること(受容すること)ができてる「幸せそうな人」とは、自分の心の穴をふさいだり無理にコントロールしようとしたりせず、おりあいをつけている人なのです。
二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになってしまうのか』、イーストプレス、2014年、p.57。
あなたの欠点そのものが人を傷つけたり迷惑をかけたりしてることって、じつは(あなたが思っているほどには)そんなにない。
(中略)
ほんとは「欠点そのもの」よりも、あなたが自分の欠点について抱いている劣等感や罪悪感といった自己否定の気持ちの方がはるかに他人にとって迷惑だし、しばしば人を(とくに「あなたに恋をした人」や「あなたを愛してる人」を)傷つけるのです。
前掲書、pp.61-2。
相手を求めつづけることで自分の心の穴を埋めようとしていると、相手を受容する余裕がなくなります。
だから、「恋をしている間は、その相手を愛することはむずかしい」のです。
(中略)
「私には、あの人が必要なんだ!」「私は、あの人を強く愛してる!」と思っている人のほとんどは、相手を愛せていません。ただ「求めて、執着している」だけです。
自己受容している人は、相手からも愛されるし、相手のことも「自分を愛するのと同じくらい」愛することができます。
(中略)
逆の立場で考えてみてください。あなたが誰かを「肯定した」とします。
あなたはその人に「あなたはステキだね」と伝えますが、その人が、かたくなに「私なんかダメ」と否定しつづけたら、どうでしょう?
それを何度もくり返していると、だんだん、その人を肯定する気が失せてくるのではないでしょうか。
(中略)
人間は、自分で自分をあつかっているようにしか、他人からもあつかわれないのです。
じつは、他人は「あなたが人には、しないこと」も、してくれているんです。
でも、心の穴を埋めようと必死な人は、「自分が他人に求めてるようなこと」しか理解できないので、他人がしてくれる「あなたがしないようなこと」を、うけとれないし、してくれていることに気づけないのです。
前掲書、pp.74-6。
女性も男性も複数が登場して自由にセックスするAVを撮影していると、指示を出さなくても女優さん同士で、ノリで体に触りあい、勝手にキスしあってる人たちもいます。
ところが。男性にとって男の体は——はっきり言えば、他人のチンコは——つねに「敵」なんです。AVの撮影でも男優同士が自分から愛撫しあうことは、バイセクシャルでないかぎり、ありえない。
前掲書、p103。

後ろの方はまた今度かな。

2022/08/29

『文學界』9月号。髙城晶平(cero)の「『Fuha』という驚嘆の声──エピックからリリックへ」を読み、面白かった。千葉雅也の「リリックとエピック」(https://note.com/masayachiba/n/n1fedfa5a2655)を補助線に、最新作の『Fuha』の作詞法について綴ったもので、これまでの物語的(エピック=叙事)な作詞から、詩的(リリック=叙情)への転換があったことを示すものだ。そこまでceroは聞かないんだけれど、冨田ラボと髙城晶平のコラボレーションである「ふたりは空気の底に」は好きでよく聴いている。これは、手塚治虫の「ふたりは空気の底に」という短編漫画に着想を得た歌詞で、地球にたった2人残された少年たちを描いている。

もしかして 夢を見てたの
ほの暗いパビリオン
夕方なのか朝方なのかもわからないよ

きみ ぼく 手と手が触れ合う
これはふたりが知り合ったあの日の覚え書き
ふたりは空気の底に feat.髙城晶平/冨田ラボ

歌詞だから、いわゆる小説や物語といったものとは情報の埋まり方は異なるけれど、「きみ」と「ぼく」の「ふたり」が、「夕方なのか朝方なのかもわからない」「パビリオン」のなかで出会っているという情景が描かれており、まさに言葉によってある(複数の)シーンを立ち上げていく物語的な作り方がされているといえるだろう。

それに対して、新作の『Fuha』は異なるアプローチを採用しているようだ。そのきっかけが面白くて、髙城さんのパートナーが、ビュリーという化粧品ブランドのカタログに書かれた文章を面白がって見せてくれたのだそう。本文中に引用されているのは、「ベルガモット・ドゥ・カラーブル」の香りを説明しているものだ。

昼下がりの強い日差しがイタリア、カラブリアの木々を照らせば、時がとまったかのようにあたりは静まりかえる。緑色の陽光がビターオレンジの葉に降り注ぐと、樹皮は濡れたようにツヤを帯び、 果実は輝き溢れる。沖に浮かぶギリシアやモーリタニアの多民族の帆船と何世紀にもわたって大海原に吹き続ける嵐と熱い驟雨。鎧戸の脇で葦を照らし、眠りを妨げようとする激しい夏。
https://www.buly1803.com/jp/body-care/751-savon-superfin-bergamote-de-calabre.html

せっかくなので、ここでは別のやつも引用してみよう。「ブジー・パルフュメサクル」という、香りつきのキャンドルの説明文。

ジュニパーとハチミツの香りに満ちた戴冠式の記憶。ステンドグラスからそそぐ冬の太陽が金色の式典用帷帳に反射し、円柱や円蓋、象牙の彫像たちの敬虔な沈黙に光を落とす。曇った寒さに震える聖堂の身廊はフランキンセンスの香りで霧に包まれ、乳香とスギの香りが魂を甘く包み込む。
https://www.buly1803.com/jp/46-bougies-parfumees/319-scented-candle-sacre.html

良いと思うかはともかくとして、キャンドルの香りを説明するために「戴冠式の記憶」「ステンドグラス」「冬の太陽」など、香りとは直接的な関連を持たない言葉が使われていることに注目するべきだろう。香りが置かれているある景色を言葉によって作り出し、香りの説明とする(でも、こうやって説明すると景色を作る=単に描写的なようにも思えてしまう。過剰さを持った情景が、香りをわからせるために使われているということのおかしさに焦点を当てるべき。→物語的な文章が時間性を持つのに対して、この石鹸やキャンドルの説明文はどこか無時間的で、切断された、標本みたいな記述だな、とは思う。そして、その静謐さが香りを呼び起こすのに適している気がする)。

髙城はここでビュリーの説明文で起きていることを、フロッタージュ(物に紙を押し当てて、上から鉛筆などで擦ることで、その質感を紙に転写する技法)になぞらえている。嗅覚というそれ自体として取り出せないものを、物質としての言語に置き換える、転写することで読み手に理解させる。千葉の、言葉を物質的に扱う「リリック」的な志向と、石鹸の香りという「曖昧な感覚」を言葉によって転写するビュリーの手つきが合わさって、『Fuha』の詞が成立している。まだ私はその詞のことをよくわかっていないけど、もっとも感動的なのは、この世界にある文章はいくつもの形を持っていて、そのうちのひとつとして、たとえば石鹸の香りを説明する「詩」があることの発見、この非物語的(=リリック/韻文)としての言葉を歌詞の書き方に持ち込んで使えるという判断だ。そして……

今回、初めてこうした方法論で作詞をしてみて、ある奇妙な考えが浮かんだ。それは、「作詞とは、まだ世界に存在しない香りの説明文を書くようなものかもしれない」というものだった。香りが、誰にでも思い当たる追憶を頼りに作られるものであるならば、音楽はある意味でまだ誰も辿り着いていない感覚を先取りするものであり、それをパラフレーズする歌詞もまた、未知のものを既知のものによって置き換える作業に他ならない。そう考えると音楽の歌詞は、例えば世界崩壊のフレグランスという、未だこの世界に存在していない現象の香りを鼻先に漂わせることができるのだ。
 髙城晶平(2022)「『Fuha』という驚嘆の声──エピックからリリックへ」『文學界』2022年9月号、文藝春秋、p.103。

「アケルマン・ストーリーズ」届いた!『囚われの女』と『私、あなた、彼、彼女』を観た日の日記を寄稿しています。「部屋と家と私|僕の生活」という題です。僕の生活と、映画を観る私と、アケルマンの映画のなかにある部屋と家について書いています。読んでほしい。
他に14人分の日記が載っていて、一読者としては、とれたてクラブさんの文章が好きだった。自分が「本物」ではないんじゃないか、というおそれがいつもあって、その怖さを超えて自分を受け容れるために、行動するしかない。

書きました、下のリンクから詳細に飛べるよ

2022/08/30

国立ハンセン病資料館、「生活のデザイン」展がTwitterで話題になっていたから。清瀬駅にて、はじめて降りる。東横線の終点としていつも電光掲示板で名前を見ている小手指駅が、電車内のディスプレイの行き先案内であと10分で着くところとして表示されている。ほとんど小旅行。

資料館は多磨全生園というハンセン病の療養所に併設されている。展示室3つ分の常設展示があり、それを見終えると小ぶりな企画展示室に行き着く。

常設展示のひとつめは、ハンセン病が(日本)社会においてどのように扱われてきたかの歴史的な解説がなされる。そもそも病気に罹ることが宗教的な意味を帯びていたところから、明治期に医療の発展とともに「感染症」という概念が生まれる。しかし、同時に「文明国」たろうとする日本の内圧によって、ハンセン病患者は警察権力によって排除される。公衆衛生が治安の維持の延長線上で考えられていたという点が興味深い。
多磨全生園には患者のいるスペースの周りに2mの高さの土塁と2mの深さの堀が作られ、外からの視線を遮断し、また患者の逃走を防いでいる。敷地の拡張工事に合わせて土塁と堀が延長される際に、患者たちの嘆願により、余った土で「望郷の丘」と呼ばれる小高い丘が作られ、かろうじて外の世界を目にすることができるようになったらしい。なかなか独りになれない患者たちが、静かに過ごせる貴重な場所でもあったようだ。そんなことをしなければ、外も見れない生活だったのか、と気が遠くなる。

2つ目は、隔離政策がとられていた頃の療養所の生活を紹介したもの。職員の数が少なく軽症の患者が、他のより重篤な患者の世話や施設内のさまざまな雑事を行っていたらしく、それがゆえに病状が悪化することがよくあったらしい(ハンセン病の主要な症状の一つに感覚麻痺があり、作業中に負傷してもそのことに気づかず、どんどんと患部が悪化してしまうからだ)。
本当にひどい環境だ、という思いと、しかしその一方で、たまに行われる運動会や仮装大会や患者歌舞伎など入所者の娯楽についての展示を見ていると楽しそうであり、むしろ我々、というか私?の方が病んでいるのではないかという思いがせめぎ合う。もちろん、差別的な取り扱いは全く擁護し得ないし、療養所のことを美化するのは避けたほうがよいのだろうが、生きることに対する健全な執着があり、その表現として種々の行事などが使われている。私にしがみつく、ということが信じられている。そのことに感動してしまう。そういう比較的明るい展示の最後で、近隣住民の反対運動のせいで移転できなかった療養所が台風に見舞われ多くの命が失われたこと、療養所住まいの小学生が登校するのに反対運動が巻き起こったこと(療養所の「謀略」に騙されるな、とまで言われている……)、就職や結婚における差別の話などがまとめて紹介されていて、反動ですごく悲しかったし、同時にこういうことがいまでも日本国内で起きている、差別の問題は同じ形をとって繰り返されるのだということ、それに対してどう気持ちを持っていけばいいのかよくわからなかった。彼らは運動を行って、自分で自分の生を決定する権利を勝ち取った。とてもえらい。

3つ目は戦後の当事者による運動、芸術活動などの紹介が主だった。囲碁、手芸、陶芸、文学、音楽演奏など、様々な娯楽・表現へと向かっていくエネルギーを見せられた。映像がいい。日記が長くて辛くなってきた。見ている時も、こういう、結構前半でもうお腹いっぱいだぞ、という感覚があったんだった。とにかく、もっと元気じゃない人はいなかったのだろうかという気持ちにもなるくらい、みんな活動的だった、それぞれの形はあるにせよ。

企画展は、それぞれの患者の体に合わせた道具——いくつもの靴やスプーンや杖——が並んでいて、ここまでみてきた患者たちの療養所での生活の実感が、もののレベルに落とし込まれて良かった。インタビュー映像がループで流れていて、自分はやっぱり人が話しているのを見るのが好きなんだなあと思った。補助具付きの包丁を使って器用に柿を剥くおばあちゃん。義肢装具士の人が、家族みたいな軽口を叩けるくらいの距離感にいて、それはやはり療養所という特殊な環境によるのだそうだ。スプーンで囲碁をする風景の写真。手が拘縮して碁石がうまく持てないから、スプーンを使って石を運ぶ。ひとつひとつの開発があり、真剣だ。


白楽に寄る。友達が教えてくれた古本屋で、光文社新訳文庫のドストエフスキー『罪と罰』(3巻セット)と、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』と、戸田山和久の『哲学入門』を買った。それで2500円。安い。本というのは本当に(相対的に)安い。安いがゆえにたくさん買って、そして積む。店主に対してキモ挙動してしまう。我、会話に必要な情報量の見積もりを間違えて、キモくなりがち。

2022/08/31

8月が終わる。12時に起きた。生活が終わっている。
稽古。すごく細い階段を登って興奮した。友だちがPFFアワードの最終選考に残ったらしい。観に行きたい。家に帰ったら『ロブスター』を観なきゃ。

帰ったら、近くに住んでる友人が家に来ていて、人も多かったのでそのままわりと賑やかな夕食。結局、映画は観ない。そういえば『初恋の悪魔』、1話分観れなかったところから、2週続けて観れなくなってしまったな。どうせ観るなら全て観たいという気持ちを捨てられない。鶏もも肉を600g焼いて、半分食べた。

あしたは図書館に行かないと。あと、朝のうちにタイムサービスの挽肉を買う。ずっと買いそびれている。鶏ももと豚ロース以外の肉が食べたい。

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