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虐待サバイバーとしての私 ①

そういえば自分の生い立ちをnoteに書いていなかったなと気がつき、今更ながらですが綴ってみます。

私が虐待を受けていたのは10歳くらいからの約10年間。
その間残念なことに、行政や公的機関からの介入、養護施設などの関わりは一切ありませんでした。

母は私が3才の時に離婚、実家に戻ってきて私と妹を育てました。
物心ついた時、私は母と妹と、祖父、祖母の5人で暮らしていました。

思い出してみると、虐待が悪化するまで私は母のことが大好きでした。

母は所謂オタクで昔から同人活動をしていて、とても多趣味で博識な人でした。
特撮やアニメ、漫画、映画や演劇、いろんなことを教えてくれて、色んな場所やイベントに連れて行ってくれる人でした。
毎週のように近くの映画館に連れて行って流行の映画を見せてくれてた時もありましたし、漫画やCDもたくさん買う人だったのでその恩恵にも預かってました。
演劇やミュージカル、宝塚や歌舞伎に連れて行ってもらったこともあります。

ただ、女子校出身で男性の友人が(私の記憶では全く)いなかったことから、30出前でお見合いを半ば強制的にさせられて、父と結婚したと聞いています。
母は、「結婚はしたくなかったけど子供は2人欲しかった」と、そう言っていました。

でも、そんな大好きだった母が、いつからか頻繁に私たちに手をあげるようになっていきました。
最初は躾の一環、くらいのそこまでひどくなかったものだったかなと思います。
でも、いつのまにかそれが悪化しだしたのは確か9歳か10歳くらいから。

一緒に入っていたお風呂で、怒られながら顔に水をかけられるようになり、
怖くなって一人で入るようになりました。

寝室は3人一緒でした。
なので逃げ場がありませんでした。
寝る前、母が延々と愚痴を言い出し、怒りの吐口に蹴られるようになりました。
手や足だと人目につきやすいので、決まってやられるのは背中、お尻から太ももあたり。
痛みのあまり叫んでしまうと「うるさい!」と言われてもっと暴力が酷くなるので声を押し殺して泣きました。
耐えることしかできませんでした。
そのうち、「もう寝ろ!」と言われて電気を消されるので、涙で枕を濡らしながら眠りにつきました。

そのようなことが何年間も毎晩のように続きました。

彼女が何を言っていたのか全然思い出せないのですが、本当に日々の些細なことだったと記憶しています。私たち子供が原因のことや、それ以外のこと。
「産んだことを後悔してる」と言われた時のあの気持ちは、今でも忘れられません。

酷いことはたくさんされましたが、もうほとんど思い出すことはできません。
多分、忘れたかったことなので、脳が優先的に消してくれたんだと思っています。
母は些細なことで怒鳴ったり、喚き散らかすようになり、物を投げたり壊したりするようになりました。
抵抗するともっと酷くなるし、大事にしているものを壊すと脅されるので何もできませんでした。
彼女の言うことは、理不尽さが日にひに増していって、どうすればいいのかわからず、子供ながらに「いっそ殺してくれればいいのに」と思っていました。

死ぬくらいの酷い重症を負わせてくれれば、救急車がきて、警察がきて、このことが明るみに出て私たちを助け出してくれるのに、と。

わかりやすい傷を負わせてくれればと思い、自分で自分を傷つけようともしました。でも手首を切りきれませんでした。
そんな度胸もない自分にがっかりしました。

自分で叩かれた場所をさらに酷くしようとしたりしましたが、痣もそこまで酷くならない。
こんな程度の暴力では、公的機関に相談しても返されてしまうのではないか?
返された後に母にもっと酷くされたらどうしようとか、自由がもっとなくなったらどうしよう、
そして、今こんなにも苦しんでる自分が「こんな程度では虐待とは言えません」、と否定されてしまったら・・・
怖くて、死ぬこともできなくて、
そんな自分が臆病者にしか思えなくて、それがまた苦しくて仕方ありませんでした。

同居の祖父母は、見て見ぬ振りでした。
祖父母は世間体を何よりも重んじる人で、私が外部に助けを求めようと提案しても
「我慢しろ」「しょうがないんだ」「家族の問題だ」
と聞く耳を持ってくれませんでした。
祖父母が殴られて怪我で病院に行っても階段で転んだと嘘をついていました。
母親と祖父母の仲はとても悪かったので、しょっちゅう喧嘩をしていました。
家では怒鳴り声が絶えず、祖父母の顔を見ると母の機嫌が悪くなるので、常にビクビクしていました。小さな物音にも母が起こるのではないかと怯えていました。

私にとって家はくつろげる場所、帰りたい場所では全くありませんでした。
なんで、どうして、憎み合ってる人たちが「家族」だという理由だけで一緒に生活を強要されるのか、理解できませんでした。

もちろん、SOSを全く出さなかったわけではありません。
虐待が始まった最初の頃、大好きだったピアノの先生に、メールで家のことを相談しました。
でも、返信はありませんでした。それからも何事もなかったかのようにレッスンは続き、私は口を噤みました。

学校に好きな先生や話しやすい先生が全くいないわけではありませんでした。
でも、何度か相談してその度に大人からは『アドバイス』を受けました。
「お母さんも大変なんだから」とか、「父方に相談して止めて貰えば?」とか。
口で言うのは何事も簡単です。
具体的に動いてくれる人は、いませんでした。
私はそのうち助けを求めるのをやめてしまいました。

多分、うちの家が裕福だったのもあるかもしれません。
祖父母は地元で有名人でしたし、でも私は他の普通の家の子供たちが羨ましくて仕方ありませんでした。
いつもジュースが冷蔵庫にあったり、自分の部屋があってプライバシーがあって、我儘や反抗期が許されて、友達が遊びに来るとお母さんがお菓子を持ってきてくれたりする。

お金があっても、大人たちが理解して子供に使ってくれなければ、それは無いのと同じです。

中学時代はいじめにも遭いました。
毎晩泣きながら眠りについていたので、朝まぶたは腫れて目は真っ赤、髪は涙のせいでぐしゃぐしゃ。
おしゃれに気を使い始める同級生についていけず、当然除け者になっていきました。
思えばうつ状態だったんだと思います。
全てネガティブにしか考えられず、教室ではずっと図書館の本を読んでいました。言葉を発するのも1日に1回あるかないか。当時の学校の一言日記に、「今日はクラスメイトと話せた!」みたいなことを書いた覚えがあります。笑

15歳の時、このまま終わりたくないと思いました。
もう身長も母と変わらなくなっていたので、殴られたら殴り返すことができるようになっていました。意外にも、そうすることで母からの暴力は減りました。
でも、束縛や嫌がらせが続きました。


長文になってしまったので、記事を2つに分けたいと思います。
正直、自分でも今書いてて涙が止まらなかったので、読む人にとっても重く感じられてる仕方ない、辛いものだと思います。
でも、これが事実です。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。





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