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「人種」の箱分けに、どんな意味があるというの

先日、台湾の友人を撮影させてもらった。

彼女達と出会ったのは空港からカッパドキアに向かうバスの中で、2人席にぎゅうぎゅう詰めにされた私と彼女達とで、今台湾ではやっているタピオカはどれだの、日本人は休み取りにくいのに、なんであなたは1ヶ月も旅ができるのだのワイワイ話していたら「写真撮ってほしいな」と彼女。

もちろん、と二つ返事で返して、翌朝彼女たちのホテルに向かった。

彼女達の宿泊していたホテルはカッパドキアでも有名な気球のビュースポットで(結局来てみてわかったのはどこのホテルも気球めっちゃ見える。見せ方が上手かそうではないかの違い)カメラひとつにレンズを3本抱え、ウキウキしながらホテルの扉を叩いた。
中から不機嫌そうなトルコ人が顔を出したので「友人と約束しているのだけど、屋上にのぼっても良いですか?」と聞くと、ますます顔を歪めダメだ、と言う。
彼女に迎えにきてもらおう、と連絡を取ろうとするとそれもダメだ、とイライラした口調でキレ始めた。私が困り「うーん」と日本語で唸ると、パッと顔色を変え
「日本人か?」と彼。
「はい…?」と返事をすると、ジャパニーズならOKだ、通れ。とすんなりドアを開けてくれた。

なんなら満面の笑みで「この事は内緒だからな。今日は寒いからあとで屋上にチャイを持っていくか?」と態度が急変した。そのあまりの豹変っぷりに気味の悪さを覚え、「チャイはいりません」とだけ告げ、足早に彼女の元に向かった。

その後も「日本人ならパスポートはいらない」とバス予約を優遇してくれたり、過剰な親切に何故かと聞くと「日本人だからだ」と返ってくる。
もちろん、これは先人の旅人先輩たちが「日本=良いイメージ」を作ってくれた恩恵なのだろう。だけれどわたしは、この箱分けがたまらなく不愉快だった。

仮に。隣の3年2組にものすごい嫌いなやつが3人いたとする。だからといって「2組嫌い」とはならない。「ねえ、あんたのクラス2組?それとも3組?」と聞かれ2組と答えただけでキレ始めるやつがいたら、間違いなくサイコパスだ(例え話が下手でごめんなさい)

中国や日本で箱を分けて「○○人は嫌い」とするのって、同じことよなあ。

トルコは親日国と言われている。
でも、本当の意味の"親日"って何だろう。
「日本人」というだけで態度がコロリと変わることなのだろうか。
じゃあこれから先来る日本人が、ものすごい嫌なやつがいたとしたら、手のひらを返したように「日本」というだけで横暴な態度を取られるのだろうか。

とはいえ私も、少なからず“箱分け”を意識してる。無意識に。

どこの国へ行っても「中国人か日本人、どちらだ」と聞かれる事がある。
一度好奇心から「中国人です」と告げると、タクシーを下された事があった。息が止まってしまいそうだった。

何故息が止まりそうだったかって「日本人でよかった」と心から安堵してしまった自分がいたことに。わたしは、日本人である自分に少なからず優越感を抱いていたのだ。人種差別なんて、しているつもりなかったのに。私の心にも、ちゃんと住んでいたのだなあ。


どこで生まれたとか、過去の同じ国の人の振る舞いとかどうでもいい。大切なのは今自分の目の前にいる人の「中身」なんだ。○○人だから、怖いとか好きとか嫌いとか優しいとか。
そんなの、なんて薄っぺらくて狭い価値観の中に閉じ込められているのだろうか。

人種での箱分けは、何の意味もなさない。私も含め。謎のフィルターに目眩ませされず、騙されず。向き合わなければ。


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