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新宿歌舞伎町小茶と那覇桜坂おでん悦ちゃん

 ヘイ、ユー! ワッチャネーム?そう歌った左とん平師匠ですが、一度だけフジテレビドラマ『フローズンナイト』でご一緒させていただいたことがありました。西部劇に出てくるアパッチの乾いたなめし革みたいな魅力のある人だなあという印象。あ、すみません。今回お便りしたのは、洞口依子のら猫書簡でのらのら書簡をかわしていただいている宮古島の neeさん、沖縄っ子たち→武富一門ヨシミ&弟子の涼と真喜屋監督、そして新たに書簡をお出しする黒猫はるみさんへと書簡をしたためたくタッチします。

 皆さんとの往復書簡を毎回楽しませていただいております。現在、私は撮影のためカナダのバンクーバーに単身在住ですが、皆さんとの往復書簡はベーリンガル海峡を太平洋を行ったり来たりする「ひょうたん島」に乗ってやってくるのら猫たちの井戸端会議じゃないですが、そんなイメージです。丸い地球の水平線に何かがきっと待っている、悲しいこともある、苦しいこともあるだろうさ、だけど僕らは挫けない、泣くのは嫌だ笑っちゃおうすすめー!ってね。あの歌詞を高らかに歌いながらしっぽ立ててくるのら猫たちの如く。

 スティーブストンに現存する日系人のムラカミハウスから、失われた金城哲夫さんの仕事部屋の階段、残されたもの、失われしもの、我々の人生にリベットとして留められるそれぞれ。私はそんな事柄に対し、時間をかけてでもいいから浄化されゆくこと、カタルシスができることは大切なことだと思っています。しかもそれは、それぞれのカタルシスであればいいのだと。

 そんな中、ふと1通のメッセージが足柄山の金太郎さんから届きましたのでこれを皆さんにお伝えしたく少しタッチします。

 書簡の写真にある「小茶のおばさん」を私は生意気にも高校時代の同級生を通じて知っていて、10代に一度だけ会ったことがありました。中上健次という作家や高橋伴明といった気骨のある映画監督たちが集う新宿の店という魅力も当時まだ10代の私の興味ではありましたが、それよりもその同級生のおばあちゃまつまり祖母が青柳藤さんで、私は同級生の家に遊びにゆくたびにおばあちゃんの話を聞いていて、その小茶という店をきりもりするおばあちゃんへの興味の方が勝ちました。

小茶は歌舞伎町の職安通りの近くのいかにものら猫がほっつき歩いてそうな路地裏にあって、小径一筋挟んで、あっちがおばあちゃんの店、こっちがママの店と彼女は呼んでいて、母娘で2軒の店を営んでいた様子でした。小茶はいつも大繁盛していて、座れない客が彼女のママの店に流れたいたり、ママはおばあちゃんに似て美人だったのでママ目当ての客ももちろんいたと思います。ある日、彼女に連れられて小茶に行ったのですが、この記事を読んでその時の様子が私の記憶装置から断片的映像(彼女たちのその様子はマックス・フライシャーのアニメのようだと言っても過言ではない)再生されました。

夕暮れの新宿職安通りを18歳の小娘2人が歩いている。路地裏に明かりが灯る小茶を訪ねると、とおばあちゃんの店はすでに混んでいて、私たちはママの店に落ち着きました。店はまだ開けたてで、カウンター席にはまだ少女の横顔の私たちだけが並んでいました。すると、いきなり後ろ引き戸がものすごい勢いで開いた(まるでラジオ劇の音効さんがつけたような)と同時に張りのある威勢のいいやや嗄れた声で何か早口で言われたかと思ったら、もうすでに声の本人の姿は割烹着の後ろ姿しか見えず、引き戸が後ろ手でぴしゃりと締められ、そのピシャリにまたカウンターにいるママがけたたましく鳴る非常ベルみたいに「なんだっていうのさ!孫の友達が来てるっていうのにあんた挨拶もできないのかい!」って、我々の頭上を超えて引き戸向こうまで響き渡ると、引き戸が今度はややゆっくり開いて「あら!いらっしゃい!」と放つその口角上がった口元から広がる言葉はさっきよりも丁寧で愛情が深く、友達は孫として大層大事に可愛がられているんだなと、そのおばあちゃんの懐の深さを初見でも感じられたほどでした。その一度きり会っただけの方でしたが、その印象は強烈でした。ある日、おばあちゃんが亡くなった話を聞いて、驚いた話があります。同級生はこういうのです。

「私、骨を齧る人を初めて見たのよその時 ……」。なんのことかとよくよく聞くと、新宿の夜の女たちがおばあちゃんの骨を齧っていたという話だった。ほら、あんたたちも、、、あたしらみんな世話になったよね、とか言いながら同じ商いをしていた女の人たちがおばあちゃんのお骨を齧っていたと。「依ちゃん、私、女の人が女の骨を齧るって感覚を初めて知ったよその時にさ」と語っていたのを思い出したのです。

 永遠なんてない。 そんなこと百も承知です。新聞の記事を読んでそんな話を思い出し、ある人のことを思い出しました。それは那覇の桜坂のおでん悦ちゃんのマダム、康子さんのことでした。あれはライターの岩戸さんからの紹介でした。いつも店の戸が閉まっているので入りにくかった店でしたが、岩戸さんからの紹介だというと開けてくれたのです。ヨシミと最初に行ったのかな。昔筑紫哲也さんがニュース番組をこの悦ちゃんから中継した逸話や、選りすぐりの作家たちに愛された店でした。挟んだ写真は矢作さんが沖縄によく来ていた頃に本人自ら撮られた写真で、開発前の桜坂の悦ちゃんの夜を捉えた決定的ショットだと思っています。

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 桜坂も変わりましたね。来沖の際、必ず桜坂へ悦ちゃん行きたさに泥酔してでも立ち寄り、康子さんに「あらよりちゃん、きょうは珍しく酔っ払ってるんですか?あら、またこんなに真っ黒に日焼けして、あなたそれでいいんですか?あなた女優さんでしょ?こないだもドラマ見ましたよ、消しゴムでたくさん消しては書いてあれは何んでしたかね、犯人役良かったですよ!でもあなた女優さんなんだからそんな日焼けしちゃだめでしょう。今日は何?お酒にしますか?時雨ですか?さんぴん茶?表の自販機で自分で買ってください。ちょっと音楽かけていいですか?」って言いながら、あの年季の入ったジュークボックスでルビーの指輪と恋人よを何度聞いても飽きなかった夜を覚えています。

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 そんなある日、康子さんの訃報を知った時は息がつまりそうになって路肩に車を停めて泣くとも言えず嗚咽したことも写真を眺めていて思い出しました。突然灯りが消えた店、そして康子さん。そんな康子さんはどこかに休みに行って帰ってこないままなんだろうという感覚が今でもあります。ゆえに私の中であの店の灯りは今でも消えないママでいます。でも、それもどうかなあって。愛した店が消えること、そして残念ながらその店のマダムとの再会はどこをどう探してももう2度とないんだという、永遠の別れだったのだということも知りながら、消えないままの灯り。私もそれをそろそろ消さないといけないんだなと、あらためて気付かされたような。昭和生まれのわたしたちがこうして昭和を支えてきた先輩方のトリロジーを畳んでゆくんだろうなって。

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 最後まで読んでくださりどうもありがとう、そして長文駄文であいすみません。どうしてもこの思いを往復書簡にリベットしたくて留めておきます。これには返信は不要です。どうかご無理なさらず。

それではご機嫌よくお過ごしください。元気でいてよ。

バンクーバーにて🐾 依子




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