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ここじゃない世界に行かない私

『ここじゃない世界に行きたかった』
塩谷 舞

20歳を超えたあたりから、エッセイを読めるようになった。

頭の中で文章を綴るのが好きだった思春期の私はどうしても共感性羞恥に近いむず痒さに駆られてしまって、授業や試験で出てこない限り食わず嫌いで避けてきた。
だというのに久しぶりに入った本屋で出会った『20代で得た知見』を装丁買いして以来、目につく本目につく本だいたいエッセイになっている。

まさしくな食わず嫌いと変わり身の速さに笑ってしまうが、この本も、装丁とタイトルから目が離せなくなった1冊だった。

文庫本でも高いこのご時世、単行本はやはり高くて一旦は諦めたのに、本屋の配置が変わった頃にもう一度訪れて、やっぱり手に取ってしまったのだから、きっとこれは縁だと言い聞かせて1600円+税をレジにひねり出した。


ぶっちゃけほとんどタイトル買いなのだけど、
ところで私は「ここじゃない世界」に行きたいんだろうか。

結論から言うと、行く気がない、と思う。

正確には、ここじゃない世界に憧れながら、ここで生きていくことを選び続ける人生だと、確信というか諦めというか、認識している。

今からすごく、恐れ多いというか烏滸がましいというか、失礼千万な感想を書く。

塩谷さんは、著者をこんな呼び方してもいいのか定かではないけど、私と同じ匂いの感受性だと思う。

晩ご飯の匂いが消えた深夜の住宅街で、道路に咲いた庭先の果実が彷徨う風。

外に出した腕だけが肌寒い、顔が火照る季節の金木犀の波。
雨が降る直前、支線の駅前の牛丼屋のドアが開く。

本当に差し出がましいが、同じ街を歩いていたなら同じタイミングで、思考の糸を切らして同じ世界を見ている、そんな気がする。

でもこんなにも視点と視線に共感するのに、私と塩谷さんとでは、生きる作法がまるで違う。
同じものにときめくのに、同じようにはときめかない。
同じ時に顔を上げるのに、紡ぐ思考はまるで違う。同じ場所で足を止めるのに、理由はきっと重ならない。

冒頭に「異なる視点を持つ友人」としての著作になればと述べられていたが、私にとってこの本はそれ以上の意味がある。

私が選ばなかった、私の世界。

塩谷さんと同じ商業地区の、成り立ちが異なる住宅街で育ち、塩谷さんより少し頑丈で、勉強に重きを置いた学生生活を送り、学内活動とインターンに精を出す大学生活を送っている。
近いようで遠い、近いから遠さが際立つ。

私はその選択肢を知っている。
そしてそれは、私が選ばなかった方の世界だ。
軸足を安全圏に置いたまま踏み出し、軸足を移すという丁寧な作業を、私はこれから先もしないだろう、できないだろう。

軸足を強固に、杭を打ち柱を立てるような生き方をしてきた。
足場を組んで、紐をつけて、ちょっと飛ぶ。紐を頼りに帰ってくる。

私の冒険はいつだって、現実との二項対立だったのだ。

塩谷さんのようには生きられない。
逆もまた然りは置いておくとして、私にしてみれば「ここじゃない世界」にいる人に対して羨望も自尊も抱かずに言葉だけを拾えた作者に出会えたことに最大の感謝を。


「人一倍の『勢い・度胸・根性』で全てのことを全力でやりきります」を自分の強みと銘打って挑み始めた就活市場。

弱くても存在を認めてくれるインターネットの世界が大好きになったのに、速さこそが価値であるインターネット「業界」には向いていない。

本の大筋とはあまり関係ないのだが、今の私にドンピシャだった。
好きなことで飯が食いたい訳でも、それを現実にしようと足掻く覚悟も持ち合わせいないけど、でもそれでも大きな企業の小さな歯車として向こう50年働きたい私は、少しでも好きなものに触れていられる業界に行きたい。

ただ、説明会に行く度思う。私は多分、向いていない。
ああ合わなそうだな…とは思うものの、大学時代に詰める陳腐なキャリアを広告業界に全振りしてきたから、今さら第1志望まで変えるほどではない、広告が好きなのは紛れもない事実だし。

正直この本について深く考え過ぎれば、向こう2ヶ月はESを書く度に鬱々とするのは目に見えている。そんなことをしている場合ではない。木曜締切の提出物が1つと、月末締切が4つある。


この就職活動という特殊なゲームにカタを付けた後、次の土台を手に入れた私はまだ、「ここじゃないどこか」へ行きたいだろうか。行きたいのに行かないだろうか。

またもう一度、噛み締めて読もうと思う。

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