あとがきには書けなかった『メッセージ トーベ・ヤンソン自選短篇集』翻訳裏話

春になる頃にはパンデミックも収束傾向にあるだろうと思っていたら、意外とそんなこともありませんね。

わたしが住んでいるVästernorrland県は人口密度が11,3人/km²で、ストックホルム県の約32分の1という広々した場所なのですが、なぜか今、国内でもっとも感染拡大率が高くなっています。町中はもともと人がまばらで、今も密な場面を見かけることはないのですが、なんなんでしょうね……。当県ではついに公共の場所でのマスク着用推奨(2004年以前に生まれた人のみ)が発令されたので、人生初のマスク生活の始まりです。日本の皆様が大先輩に見えます。

さて、今日は最新訳書のことを少しお話させてください。

ムーミンで有名なフィンランド作家、トーベ・ヤンソンが生前最後に刊行した作品『メッセージ トーベ・ヤンソン自選短篇集』です。

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長年の間に発表した多くの短篇の中から、トーベ本人が選んだ31篇が含まれています。

詳しくは、フィルムアート社のHPをご参照ください。本作の魅力をあますところなく紹介してくださっています。http://www.kaminotane.com/2021/02/02/13910/

フィルムアート社さんと共同で、ツイッターのほうでは一篇一篇の短い感想を語っていますので、よかったらこちらもどうぞ。https://twitter.com/filmartsha/status/1364773330847494146

フィンランドの作家であるトーベ・ヤンソンの作品を、なぜスウェーデン語の訳者であるわたしが訳したかというと、ご存知の方も多いとは思いますが、トーベはフィンランドでスウェーデン語を母語として暮らす人々のひとりだったからです。トーベの場合はお母さんがスウェーデン人で、子どもの頃から頻繁にスウェーデンの親戚を訪ねていて、本作にも個性的な叔父さんたちや、ちょっと不思議ないとこエピソードが出てきます。

トーベは今年没後20年で、生きていたら107歳、本作に収録されている短篇は1971~1997年に執筆されたものです。それを2021年の今、日本に改めて紹介できたことをとても嬉しく思っている理由を、いくつか書かせていただきたいと思います。

トーベは青春まっただなかのいちばん楽しい時期に、第二次世界大戦を経験しています。物質的にも厳しく、弟や男友達は戦場に送られ、大親友のエヴァもアメリカに移住してしまう、そんな中で創作活動もスランプに陥りつつ、本当に自分がやりたいことは? 本当につくりたい芸術は? と苦悩しながら自分と向かい合っていました。

そんなある日、港で絵を描いていると、知らない人がやってきて「お嬢さん、そんなことしてないで家に帰って子どもでもつくりなさい。いつ戦争が始まってもおかしくないんだから」と言われる場面があります。

5年ほど前にこの作品を初めて読んだとき、わたしが思ったのは「やっぱり戦時中は大変だったのね~」ということくらいでした。しかし今回のパンデミックを経てこの箇所を読むと、なんとまあ relatable!! マスク警察ならぬ……何警察? これってまさに今わたしたちが感じている息苦しさとか生きづらさを表したエピソードだと思いませんか。いい年をした大人であるわたしは、それ以来、どうすれば今の若い人たちにこんな思いをさせない社会をつくることに貢献できるかな……と考える日々です。

ご存知のとおり、戦争に関してはその後、終戦を迎えるわけですが、トーベの人生の闘いは続きます。ご本人が闘っているという意識だったかどうかはわかりませんが、当時少なかった「女性の」芸術家であり、フィンランドでスウェーデン語を話す言語的少数派であり、人生の後半には同性をパートナーに選んだという意味でもマイノリティーでもありました。生きていたら107歳。今よりずっと閉鎖的だった時代に、自分を偽らずに生き抜き、しかも仕事人として世界中で評価された彼女に、今のわたしたちも勇気をもらわずにはいられないと思うのです。

翻訳者の会のブログなので、翻訳の話も少し。

本作の原書はスウェーデン語なわけですが、わたしが読んだことのあるスウェーデン語とはちょっとちがって、最初はかなり戸惑いました。フィンランドのスウェーデン語だからなのか、昔のスウェーデン語だからなのか、多分両方なのでしょうが、同じ単語でも今わたしが使い慣れている言葉のニュアンスとはちがうものが多く、大きな辞書で調べたりしながら、正確さを期すためにかなり時間をかけて訳すことになりました。

こんなに有名な作家さんの作品を訳すのも、旧訳がある作品を訳すのも初めてでした。そこで気づいたことがあります。読者の方々、特に昔からトーベ・ヤンソンのファンの方々は、すでに自分と彼女の間に一対一の関係を築いていらっしゃるということを。本作のまえがきで、文学評論家のフィリップ・テイル氏もこんなふうに、自分とトーベの関係を表現しています。

どうすれば読者とこんな信頼関係を築けるのだろう。他の誰でもなく、ぼくに話しかけてきているような気がするなんて。彼女が手を差しのべ、こう言っているような気がするのだ。「ねえ、もちろんこうでしょう? わたしの言ってること、わかるわよね?」
 これほど直接的なコミュニケーションを持続できる作家というのは稀だ。最初のくだりからもう、フィクションではなくなるフィクション――だからこそ、作品の世界の外でも、彼女との信頼関係を続けたくなる。

今回新訳を刊行するにあたって、翻訳者の役割、翻訳者にできることはなんだろうかと考えたときにわたしが思ったのは「すでに読者の方々が築いているトーベとの関係性の邪魔をしないこと。できればそれを深めるお手伝いをしたい」ということでした。

具体的に言うと、もちろん誤訳がないこと。何度も原文と一文一文つけあわせて、間違っていないだろうか、わたしは何か誤解していないだろうか、と確かめました。それでもわからなかった何カ所かについては、当会でご一緒しているセルボ貴子さんにフィンランド語訳から確認してもらいました。セルボさんは評伝『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(トゥーラ・カルヤライネン著)の共訳者でもあり、今回の翻訳にあたっては大変心強い味方でした。あと、これはわたしの勝手な推測ですが、フィンランド語訳はおそらく相当クオリティーが高いと思います。なにしろトーベ本人の母国ですし、不明点があればおそらく生前の彼女に質問できたのではないかと。

正確性を期すること以外にもうひとつ心がけたのは、できるかぎりニュートラルに訳すこと。自分の色や主観は極力排除して、読者の方々にトーベの作品をありのまま味わうという正当な権利を与えるのが翻訳者としての務めかなと思いました。とはいえわたし自身も読者の一人であり、完全に主観を無くすことは不可能ですが、なるべくフィルターがかからないようにと心がけました。

トーベ・ヤンソンは、100人読者がいたら100通りの読書体験を与えてくれる作家だと思います。だからこそ他の人の感想を聞くのも楽しいし、それがまた新しい体験として命を得るのですよね。個人的には今、noteで考える虫さんの感想を毎回わくわくしながら読ませてもらっています。

あとはトーベ・ヤンソンの人生について少し知っておくと、本作をよりいっそう楽しんでいただけると思います。ここでわたしも参考にさせてもらった評伝とHPをご紹介しておきますね。

トーベ・ヤンソン──仕事、愛、ムーミン』(ボエル・ウェスティン著、畑中麻紀・森下圭子訳、講談社)

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ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(トゥーラ・カルヤライネン著、セルボ貴子・五十嵐淳訳、河出書房新社)

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ムーミン公式サイト(www.moomin.co.jp

こちらのブログではトーベ・ヤンソンの専門家、森下圭子さんや萩原まみさんによる充実の記事がお楽しみいただけます。

また、2021年秋には、日本でもトーベの半生を描いた映画『TOVE』(原題)の公開が予定されているのがとても楽しみです。

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トーベ・ヤンソン・ファンの皆様も、ムーミン以外は初めてという方も、2021年がトーベとの新しい関係を築く年になることを(勝手に)お祈りしております。

文責:久山葉子

1975年生。神戸女学院大学文学部英文学科卒。2010年よりスウェーデン在住。著書に『スウェーデンの保育園に待機児童はいない』(東京創元社)。訳書に『許されざる者』(レイフ・GW・ペーション著、創元推理文庫)、『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著、新潮新書)、『北欧式インテリア・スタイリングの法則』(共訳、フリーダ・ラムステッド著、フィルムアート社)など多数。



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