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未来宇宙なのにハンコ文化だから映画『デューン 砂の惑星』はドキドキする

映画デューンについてどこから書こうか迷ってる。映像として素晴らしかったのは大前提で。
今回、再発見したことは西暦10191年の世界が徹底的にアナログだったこと。AIやコンピューター、ロボットが一切ない。

計算と記憶は人間の脳で全てする。
乗り物の操縦も全て、人間によるレバーとスイッチ操作。タッチパネルすらない。
タッチパネルでの操作は間にコンピューターはさんじゃうからね。

スターウォーズではコンピューターがやっていた宇宙航路の算出も人間の頭でする。
AIやロボットを使う代わりに人間の能力を拡張している。

ある人は計算力と記憶力が強化された人間コンピューターに。ある人は触診だけで体の調子を診るスーパードクターに。
そしてある人は能力だけで空間を「折り畳んで」宇宙船を任意の場所にワープさせる「航宙士(ナビゲイター)」になっている。

でもみな機会じゃなくて人間。感情があり、欲望や葛藤もある。
AIやバーチャルといった電子情報が幅を利かせる現代技術の延長線上とは真逆。とても人間くさい未来だ。
もちろん通信網もアナログ。重大な通達には「使者」が「巻物」を持ってくる。

さらに、2021年の日本では何かと批判されるハンコ文化がまだまだ生きている。
ハンコ(印章)のついた指輪が物語の仕掛けとして非常に重大な意味を持つのだ。原作が半世紀前のSFだからじゃないよ。
その認識は昔のSFをナメすぎてる。

1960年台のSFにはすでに今想像するようなテクノロジーのほとんどは(形は違えど)描かれていた。
原作者はわかっていてわざとアナログな世界の設定をした。そして今作の監督はそれをわかって継承した。
アナログの世界こそが、設定が作者の訴えたい哲学のキモだからなのです。
一つだけ劇中のセリフを紹介。

「生命の神秘は解明するものではない。体験するものだ」

主人公の母と息子がが敵に捕まって後ろ手に縛られる。
2人が転がされた飛行機の中。
縛られた後ろ手をなんとか息子に向けて手信号送る母の体の捻り描写の緊迫感ときたら。デューンの未来宇宙はとても人間臭い。

だからデューンはドキドキする。
この映画はハンコ文化の未来です、なんて言葉で説明はされない。映像で表現するのが映画。
「デューンの魅力は文字で読むものじゃない。映画館で体験するものだ」


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