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4.大切な人を想う、ということ。

葬儀の準備から終了までの間のことは、まだきちんと振り返ることができていない。正確に言うと、ぼんやりとしているのだ。
ただ、どうしても振り返って書いておきたいことだけは書いておこうと思う。

死後、警察の現場検証などのバタバタが終わり、
父の死因は心不全と診断された。(後から知ったのだが、どうやら心不全とは死因不明と同義のようだ)
その後、葬儀社との打合せの前に、母がこんなことを口にした。

父は幸せだった。
二人のよい息子がいて、
二人のよい嫁、娘ができて。
一人の孫がいて。
自分のしたいことをして。
幸せだったに違いない、と仰せ。
年始に家族皆が集まって会えてよかった。

と。
私もそう思った。
父と最後に酒を酌み交わせてよかった。
本当に良かった、と。

実は年末、母が転んで人工関節を入れている左股関節を痛めていた。
そして、ごちそうを振舞えないから、今年の年末年始は来なくてもよいよ、と、言われていた。

しかし、一品持ち寄りで集まることとしたのだった。
もし、この時母の提案通りにしていたら、
集まらずに酒を酌み交わしていなかったら。
きっと後悔してもしきれなかっただろう。

更に母はこんなことも言っていた。
前日の夕食時の父母の会話。
父が「このまま死ねたらいいのにな」
母は「何言っているの、またまだ寿命は残っているわよ」
(母はこの時「先に死なれたら私が寂しい」と思ったが、言えなかった、と。)

父は、母の意見や忠告を素直に聞くことは、ほぼなかった。
「うるさい」「だまれ」「好きにさせろ」「これでいいんだ!」
こういわれ続けた母は、父に意見することをしなくなる。
すると意見を誰も言わなくなる。
おのずと夫婦の会話は必要最小限のことにとどまっていたようだ。

それでもなお、専業主婦として父の衣食住の家事・世話をし続けた母。
することがなくなればさみしくなることだろう。
そして母はこうも言っていた。
「もっと優しく接してあげればよかった」
「酒を飲んで上機嫌で帰ってきたときに、もっと話を聞いてあげればよかった、『そうだね、そうだね』と」

64歳で再雇用の仕事も辞めて12年。
大手ゼネコンに勤めていた父にとって、会社、仕事が人間関係のほぼすべてだった。
退職後、中元・歳暮・年賀状・接待の酒席はピタリと止まった。
伊豆での船釣りを趣味にしていたが、これとて接待してくださっている業者の方が車を出してくださってのことだった。
(父は車の免許を持っていなかった、何度か取ろうと教習所に通ったそうだが、教習で上手く行かないこと、叱られることに短気を起こして諦めてしまっていた)

引退後、することとコミュニティを失った父は、
徐々に昼間のカラオケを覚え始めた。
地元の店に、少し友達ができつつあったようだった。
そんな中、昨年8月に直腸がんの手術。
体も弱り、気持ちも弱っていたのかもしれない。

ーーー
そして母は、年始の父の話していたこととして、
「お父さんは二人のことを心配していたのよ」と、こうも言っていた、
と教えてくれた。

「智和(次男・私の弟)の会社(写真屋)は昨年最高売上といっているが、分析が大切なんだよな、利益や投資や借入はどうなっているのかな」

「規和(長男・私)」は3回も転職して大丈夫なのかな。しかも1社目の会社に買収されただなんて。出戻った後に元の仲間から冷たくされていないのかな」

いやいや、大丈夫だって、伝えたし。
みんな「おかえり」って出戻りを歓迎してくれているって伝えたじゃん。
それでもなお、心配してくれていたのだな、と。

離れている家族を想う気持ち、こういう形で間接的に聞くとグッときた。
自分は同じような熱量で想像して主に祈ることができているだろうか。
自分の想う・祈る姿勢を問われなおした。

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