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「自分らしさ」を定義してはいけない

情報社会における「山籠り」的行動として、Twitterをやめているわけですが、おかげさまで内省がグングンと進んでいます。

◆Twitterを一時的にやめている話。
https://note.com/norider11/n/n3d7612e01308

こうしてnoteにいろいろと書いてみたり、自分だけの場所に書いてみたり、気心知れた人と話してみたり。

そんな中で、ふと「自分らしさって、実は説明できないんじゃないか?」と思いまして。

今日はその話をしようと思います。

自分らしく「在る」ということ

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散々内省を繰り返してきて「いまさらか!」という部分でも在るのですが、「自分らしさ」に形はありません。

「自分らしさ」とは、そのときの「在り方」だと思います。

ちょっと長ったらしいですが、「自分らしさ」とは「今の自分が、今の自分の価値基準(信念)に従って、自分に誠実に、自分を大切にする気持ちで、偽りなく言葉や行動を選択できている状態」ではないかと。

そう、状態。

これまでの私は、「自分らしさ」という言葉から、まずは「自分」を定義しようとしていたのだと思います。そして、定義し尽くせるものだと思い込んでいた気がします。

そこがちょっと違っていて、というか、ちょっと理解が浅くて。
そもそも「自分らしさ」は「今この時の在り方・状態」なのだから、定義するようなものではないのだと感じています。次元が違うというか。


「〜らしさ」の「〜」部分に入る言葉には、なんらかの固定観念(言葉に対する意味づけ)が存在します。「母親らしさ」と言われれば、私の中の「あるべき母親像」が出てきて、それに縛られる。「女らしさ」「男らしさ」「子どもらしさ」「新入社員らしさ」「上司らしさ」etc.

同じ感覚で「自分らしさ」を考えていたので、まずは「自分」を定義しないといけないと考えていました。でもそれでは、「あるべき自分でいること」に縛られる。「べき思考」に縛られる。

「らしさの期待」から抜け出そうともがきながら、一方で「誰かから認められるであろう自分らしさ」に自分を縛りつけようとしていたんですね。滑稽なものです。

私は「自分」についてすら、「正解探し」をしていたんだと思います。つまり、誰かに「それで合ってるよ」と言ってほしかった。

「自分らしさ」とは当たり前ですが自分のことで、自分のことは自分しかわからないのだから、誰かに認めてもらいたいという気持ちが入っている時点で「自分らしさ」に辿り着けるわけがないんです。そこがわかっていなかったんだと思います。

「自分」を束で考えない

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私は、物事を束で考える癖があります。これは仕事でよく上司から注意される部分で、すぐに「AならばB」を決めたがる。結論をひとつにまとめて、それを自分の中に持つことで安心したがる傾向があります。

この癖が「自己理解」に対しても発動していて、自分のことを少ない言葉で端的に表現したいと、無意識的に考えていたのだと思います。むしろ、「私は○○な人間である」のようにシンプルにすることが「正解」のように考えていたのかも。

人間、そんな単純なものじゃないのにね。


過去の記憶から、たとえ話をします。

私は3姉妹の長女なのですが、種類の違うケーキがあって好きなものを選ぶ時、私が自分の第一希望を押し通すことは、まずありませんでした。
最初に自分の希望も言います。が、妹が同じものを欲しがったら「じゃ、いいよ〜」と譲って、第2希望(もしくは第3希望、つまり残りもの)を選ぶ。そんなことが多かったです。

ここで、「私は他人を優先する人間である」と一言でまとめたがっていたのが、過去の私です。最後の行動だけを言葉にする感じです。

でも、そうではなくて、

・そもそもケーキ全般が好きだから嫌いなケーキがない
・ケーキは楽しく美味しく食べたい(自分が食べたいものを食べるより、みんなで納得する決定をすることの方が大事)
・長女の自分は服や靴などを新品で買ってもらえるが妹たちは基本お下がりなので、こういう時は自分の好きなものを選んでほしいと思っている
・妹はおそらく「譲ってもらえるだろう」と思っているので期待に応えたい気持ちもある
・母は「姉妹喧嘩が一番嫌いで疲れる」と公言している
・ので、喧嘩にしたくない
・次はリクエストして買ってもらえば良い

……ちょっと思い出しただけでも、これくらいのことは考えているわけです。「他人を優先する」という一言に集約するには、あまりにも範囲が広いし、いろんな要素がありすぎます。

もうちょっと抽象的にすると、

・食べ物へのこだわりが薄い
・揉め事が嫌い
・姉妹は平等でありたいと思っている
・家族の期待に応えたい「いい子ちゃん」である
・自分の希望を言葉にできる

みたいな感じになると思います。

どれもこれも私で、ここから何かを削る必要はないし、たとえば「食べ物へのこだわりが薄い」ことと「揉め事が嫌い」のような別々の要素をまとめる必要もありません。ちなみに、食べ物へのこだわりは薄いけれど、こだわりの強い部分もあるので、「細かいことにこだわらない」などとまとめることもできないと思っています。

一言では語れない、この状態こそが「ありのまま」であり「自分らしさ」なのではないかと思うのです。

「自分らしさ」を定義しないで生きる

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「自分らしさ」を考えていると、ついつい「私は○○な人間である」という結論じみたものを探したくなるのですが、おそらくそれを決めてしまった瞬間に、私の「自分らしさ」は失われます。

自分で「私は○○な人間である」と決めることで、「○○であるのが私らしい選択だ・○○であらねばならない」という考えが出てきてしまうからです。つまり、決めることでそれが自分の中の「正解」になり、無意識的にそこに寄せていってしまう。自分を型にはめてしまうのです。無意識的に。

「自分らしさ」とは、型にはまっていない自由な状態でいられることであり、ありのままの自分を受け入れている状態だと思います。

私の場合、「私は○○な人間である」という一文を自分の中に持つことで、途端に思考と言動が不自由になる。面倒くさい人間だなぁ、と思いつつ、これもまた私なんだと思います。

これは完全に私の個人的な感覚なので、そうでない人もたくさんいると思います。でも、「らしさの期待」にすがって生きる「いい子ちゃん」街道をまっしぐらに走ってきた私の思考の癖と価値観だと、こうなってしまうんですよね。

なのでこれからは、自分らしく生きていくために、「自分らしさを定義しない」ように意識しようと考えています。逆説的に聞こえるけれど、たぶん私にとってはかなり大事なこと。

「その時その時の自分を表現できる言葉はたくさん持っておきたいけれど、決めつけはしない」という感じでしょうか。

肩の力を抜くというのは、こういうことなのかもしれないですね。

少しずつですが、どんどん自分を解放していってあげたいと思います。


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