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新・「空気の研究」

【「空気の研究」という本があった】
かつて、山本七平という方が書いた「空気の研究」という本がある。社会評論を得意とする山本氏ならではの、日本社会に漂う「気分」「同調圧力」についての山本氏なりの捉え方は、大変に興味深く、面白く読んだ記憶がある。初版は1977年。既に45年前の出版になる本だが、未だにあちこちで引用されている。この本が出版された当時には当然だが、今のようなインターネットは無い。テレビや新聞などの、今となっては「レガシー」と呼ばれるマスコミだけである。

【インターネットが「空気」を変えた?】
最近はインターネットがあるので、この本に書かれている日本国内での「一方的な意見への誘導」に関する「研究」の発表は、ネット上を調べると、あちこちにあるが45年前の日本では、山本七平氏のこの指摘は、その政治的立場を越えて響くものがあった、というのは褒めすぎなのだろうと思わないでもない(山本七平氏は、保守系と言われていた)。しかし、今となっては「そういうものがどんな社会にもある」という「客観視」ができる様になっていることは確かだろう。そのため、人が群れ集うことなく、ときの政府などとは違う意見を交わす場などや、マスコミ報道があまりに一方的であるなどの疑問があるときに、即座に疑義を呈することができる場が広がり、空気そのものはなくならないにしても「空気」を意識し、それを肯定するなり、否定するなり、というどちらの行動も取りやすくなった、と言えるのではないだろうか?

今は政治的に「左」と言われている組織や人の集まりにも、「右」と言われているそれにも、根底に同じような「空気」が存在することがわかっている。要するに「人の集まり」として見た場合は「右」も「左」も、同じ原理で動いていた、ということだ。現代はこの人の組織などの根底にある「同意の構造」としての「同調圧力」そのものを客観視し、多く疑義が呈されている時代だと言えるのではないか、と私は思う。

【地域の横のつながりを作ってきたレガシーなコミュニケーション手段】
この数千年間、人間社会は「地域」で生きてきた。人の歴史、文化は「地域」をベースにしてきた。人どうしが寄り集って、より密なコミュニケーションを作って地域社会を構成し、地域でのコミュニケーションを基礎に、地域の社会ができ、地域の組織ができた。地域が同じ方向を向き、近隣の家庭や同業者などは、地域ごとにまとまって組織化された。そこにできたのが「マスコミ」だ。マスコミは人間の社会の発展とともに、より広域になった、ややもすると地域としてはバラバラになりそうな社会の向く方向をまとめるために、物理的な地域の人のつながりをより強固にするために、より広域でひとまとまりな地域の情報を一箇所にまとめ、まとめられた情報を地域の誰もが等しく受け取れるようにしてきた。そして、地域としての「標準的な見解」「地域としての標準的な人間行動」を作って、地域社会の「まとまり」を、作った。しかしながら、マスコミなどの組織内でそれらの情報をまとめ、取捨選択するのは人間であり、人間は志向や意見を持つことは自明だ。それが偏っている、という場合だってあるかもしれない。あるいは「多数派」の意見を「作る」こともあったかもしれない。つまり、その「編集」の段階でメディアが「権力」に変身することがありうる。それが山本氏が言うところの「空気」なのだろう。現代はそれを客観視して言うところの「同調圧力」というものの、正体なのだろう。

【インターネットとはなにか?】
そう言えば、インターネットが出始めの頃「インターネットってどんなものでしょう?」と聞かれることがよくあって、自分は「放送はコンセンサスを作るもので、インターネットは個々のコミュニケーションの手段です」と、答えたことを思い出した。今から考えれば、ここで言っていた「コンセンサス」が「空気」「同調圧力」と読み替えられるものだったんだろうな、と思うのだ。つまり「ある方向を持った、まとまった同じ意見」ということだ。ある意見が多数であるとマスコミが大勢の人に知らせることによって、自分の意見がその大勢の中で多数派であるか少数派であるかが自覚できるようにした。あなたがそこで少数派であった場合、それを自覚し、少数派であることによる不利益が自分にあるから多数派に自分の意見を変えろ、というように、この「多数派情報」は使われる。それが「同調圧力」という「脅迫」に似たものとして少数派であるあなたには認識される。日本という集団農耕的な社会では、西欧的な、強いリーダーが一人いて、それが社会を引っ張るというイメージが社会に無いので、こういった「こんなことを言うのはあなただけだ」という情報は、ネガティブにとらえられこそすれ、ポジティブなとられ方をされる場合が少ない。これが集団として「違う意見を持つ少数派」に押し寄せて来るのが「同調圧力」の正体である。これが意識されるようになって来たのは、この日本という地域では、集団での社会の組織化の根本原理が西欧的なものに変わりつつあることを示しているのかもしれない。つまり「同調圧力」とは日本古来からの集団農耕を基礎とした、ヒーローなどを必要としない社会において、西欧的なヒーローを頂点に置く「組織」による「支配」を行うために導入された仕組みなのかもしれない。

【「西欧的ヒーロー」と「日本の少数派」】
ハリウッド映画では多く「ヒーロー」が出てくる。そのヒーローのストーリーはだいたい似ている。映画では、そのヒーローが強いばかりで「常に勝つ」わけではなく、どこかで一度「負ける」。あるいは「誰からも相手にされなくなる」などの「苦境」を経験する。その後になんとか苦境を乗り切って。。。というストーリー展開が多い。つまりヒーローは「少数派」に一度なる。そこを通り過ぎて「リベンジ」が始まり、ヒーローに再びなる。つまり「少数派であるという状態」は、勝利という最終段階に進むためにヒーローを「鍛える」という役割があり「少数派であること」は未来に向かって挑戦する、という、むしろポジティブなイメージもあるものだ。日本では「少数派」は「少数派であること」が完全なネガティブにされたまま「なぜネガティブなのに少数派のままなのか?」をストーリーにすることが多い。日本という地域では「少数派」はネガティブなまま扱われる。

【レガシーなコミュニケーション手段の作ったもの】
米国の著名なジャーナリストであったデイヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam)は、更に進んで「メディアそのものが権力として振る舞う」積極的な姿を描いた「メディアの権力」(1999年)を著した。これも世界的なベストセラーになった。この本によって、マスコミそのものが「現代社会の新たな権力」としてはっきり意識された、と言っていいだろう。結果として現在では「マスコミの横暴」みたいな言葉も聞かれるようになった。

【インターネットは現地から編集なしに情報を見る人に届ける?】
インターネット、特に最近のSNSなどでは、ライブカメラが多く使われる様になり、ライブでの360度カメラも多用されるようになった。360度ライブカメラを使うと、編集らしきものと言うと、カメラの位置を変えるくらいしか余地がない。「どこを見るか」は、視聴者が決める。また、同じ事柄をあちこちから全く違う考えで様々な人が「ライブ中継」をするようにもなってきた。「見る位置」も、視聴者が選べるほど多くなってきたのだ。インターネットによる情報伝達の大衆化・大容量化・低価格化のおかげである。相対的に「編集」「情報の取捨選択」に、人間の意志や思惑が入る「マスコミ」への期待度や依頼度が落ちてきた、と言えるだろう。それは当然「信頼度」の低下につながっていく。「現地の様子」を360度のライブカメラを使って報告できる時代に、マスコミが360度カメラを使わないことが多いのは、360度カメラを使うと、マスコミでの「編集」の余地が非常に少なくなってしまい、現在のマスコミの存在意義がほとんどなくなってしまうからだ。

【「デジタル」でも「フェイク」を作る事はできるが】
更に情報伝達手段のデジタル化・大衆化が現在は進み「これが事実です」などと視聴する人間に届けられる映像や音声は「恣意的に作る」ことが可能になった。また、それが多くの人に認知された。「ライブだと思ったら、作られ、編集された映像だった」ということも起こり得る。ネットでは事故現場などの映像が作られたものではないか?ということで、それ専門の役者「クライシス・アクター」の話があちこちで語られている。このクライシス・アクターが実際にはいなかったとしても、多くのマスコミ、ネットも含めた映像は「見る前から疑われている」という状況にあることは確かなことだろう。デジタル映像編集技術の高度化と大衆化で、それだけ「フェイク映像」は一般的になっている、とも言える。しかし、同じ場所のライブ映像を多くの人が同時に送ることによって、フェイク映像もフェイクと発覚することがあるのだという。また、配信された映像を検証する、という人たちも増えた。基本的に「フェイク」はやりにくくなった、と言って良いのではないかと思う。

【「何を映すか」ではなく「何を映さないか」】
実は、報道がマスコミであるにせよ、ネットであるにせよ、編集で選ぶ以前から「何を撮るか」、あるいは「何を撮らないか」で、映像情報は選択され、選択する「意思」が働いているものであるのは、映像などを作る現場の人には常識と言えることだ。映像を視聴することが多い人は、だから「何が見えるか」ではなく「本当は見えていて良いはずなのに、見えていないものはなにか?」という観点で、映像の真偽や映像を選ぶ人の「志向」などを推察する訓練をしておくと、より「真実」がわかるようになる。流れてくる映像をそのまま見ているだけでは、やはり本当のことはわからない。

【結局、情報の受け手の意見が優先される】
とは言うものの、このような情報のデジタル化・大衆化の発展によって、結果として、私たちがマスコミやネット経由で見る映像や音声なども複数同時に見て「これがいい」と選ぶことができる時代になった。そして「選ぶ」には、受け手側の「情報を受けるスキル・好み」が重要な時代になったのではないだろうか?「なにを見たか」ではなく「何を見ようとしているか」が、重要な時代になったのだ。

おそらく、それが現代の情報の受け手の「空気」なのだろう。


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