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複数の宗教を同時に信心する。

【複数の宗教を同時に。問題はない】
いわゆる宗教ってのは、複数のものを信じて良いんだとぼくは思うんだね。例えば、だが仏教諸派とキリスト教諸派は根本が違うので、相互補完的にはなるけれども、決してある論点が違うので争うことはないと思うんだね。

【排他的なのは「宗教」ではなく「宗教団体」】
つまり現代の教団を持つ宗教を排他的にしているのは、宗教ではなく「宗教団体の存在」という、宗教そのものとは全く違う「政治」なんだと思うんだな。加えて、だけど、人間側の能力のキャパシティの問題もあるだろう。一つなにかを信じたら、もう他のものは頭に入らない、という、ね。つまり、複数の宗教を受け入れる頭があれば、それもいいんじゃないかね?ってことだね。

例えば、希な例ではあるが、乖離性同一性障害であれば、一人の人間でありながら、完全に別人格が、別々の宗教を深く信心することはできるだろう。こういった「例外」を認めない、というのは、ある意味において「組織の歯車としての人格を作る」ために、宗教より宗教組織に重きが置かれる根拠とも言えるのではないだろうか?乖離性同一性障害の人を個性として受け止めて、教団組織で受け止めることはできるのだろうか?そういう教団組織があったとして、どのようにその人格を教団内で扱うのか?興味は尽きない。また、健常者ではなく、精神異常、身体異常をきたした人間を教団組織が排除する、ということがあれば、やはりその宗教団体は「教義よりも組織に重点を置く政治的組織」として認識され、純粋な宗教とは違うものと認識されるのではないか、と、私は思っている。

【「コッホ神社」って知ってる?】
実際のところ、例えば北里柴三郎が恩師であるコッホを祀った神社(コッホ神社)が今も東京・港区の北里研究所病院の中にある(誰でも参拝可能な小さな神社です)んだけど、コッホって神社神道とは違うキリスト教だと思うけど、今も昔も反対とか言う人は、祀った北里先生とその周辺、日本国政府や日本国内各宗教団体、コッホご本人や、カトリック・プロテスタント団体を含めて、世界中にまるでいないよ。
昔も今もね。

【「ボーダーレス」でなければ生き残れない】
今やインターネットによって「地域」の「脱地域化」が始まった以上、宗教もこの流れに逆らうと消えちゃうと思うんだね。人の思想や哲学の囲い込みで地域の人の塊を組織するための宗教、というのを、できるだけ早く捨てられた宗教団体が、おそらく人間の社会の未来に生き残ると思うんだよね。

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