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「頭が良い」ということ。

【多くの場合は成り立たない3つの要素の等式】
「頭がいい」=「学校の成績が良い」=「高収入」というのは、かなり安定した社会でも、無いよなぁ。というのが実感だ。つまり「幻想」。それを前提にして「読ませる」ことを意図している記事や漫画は結構多く、ネット上でも時々ぶち当たる。

【それって「循環論法」なんじゃないの?】
しかも「頭が良い」という定義が「学校の成績が良いこと」であるとすると、この等式は「循環論法」を含んでいるので、ますます話がアヤシイ。循環論法は「AはAだからAである」という言い方のことで、循環論法詐欺によく使われる論法として有名だ。

【しかも「例外」は「例外」でなかったりする】
既に様々な他の記事や漫画で「裕福な家庭に産まれて高学歴なのに苦しい人生を送っている人」の話が結構ある。その場合はむしろ「こんな例外もある」みたいな書かれ方で「例外」として読む側に消化されている可能性もあるんだろうね。「だから低学歴でも安心していい」みたいなことを望む読者層に多く読まれるように、ってことだな。こういうものは、ね。そういう人がたくさんいるから、商売になる、ってことだよね。

【この3要素等式は「一般化した幻想」】
実際の私が見てきた社会ではこの「三つの要素の等式」は、成り立っている場合もあるが、そうでない場合もある、というだけだねぇ。まぁ、それじゃ「売れる記事」は書けないし、売れる漫画は書けないのだから、こう書くしかないんだろうけどね。人の社会はその秩序をこういった「常識」という名前の「無意識に刷り込まれている幻想」で成り立たせる、ということもあるからね。

【「親ガチャ」の立ち位置】
「親ガチャ」ってのが、この「三つの要素の等式幻想」に、一撃を加えたようなところも、それが登場した当初にはあるんだが、時間と共にその役割は変わって、いまはこの「三つの要素の等式幻想」を支える、というようになったよな。つまり「裕福で安定した両親の間に産まれた子供は情緒も安定するから、学校の成績も良く、長じては親と同じように裕福になる」というような、ね。

【実際の人生と違うなぁ】
実際の人生には、いくら裕福で安定していても、病気や事故は例外ではなく結構普通にあるわけだし「死」に至っては誰にも100%の確率で訪れる。

【頭が良くても】
実際に「良いアタマ」が、全く別の方向に向くことがあったのは1960年代、1970年代には、新左翼学生運動なんてのも、米国を中心とした先進国であったわけですね。日本にも来たけどね。今の人工知能やその基礎のIT、コンピュータグラフィックスなどの基礎はそういう人たちが作ったのは、ぼくは目の前で見てるからね。今のネットワークやコンピュータOSの基礎になったUNIX/Linuxを作ってきた人たちは、米国に行ってたくさん会ったのだが、みんながみんな、といっていいほど「元・学生運動の闘士」だったよ。みんな映画の「いちご白書」をリアルに体験した世代だよね。

【この等式が現代社会の秩序を作っている】
この「三つの要素の等式」は、そうであると見える人にとっても、そうでないと見える人にとっても「幻想」なんだけど、その幻想が現代社会の「秩序」を作っているようにぼくは思うんだな。

【「キミはbakaだからあきらめろ」ってそれ。。。】
この「三つの要素の等式」があてはまらないと考える人に「諦め」を持ってもらって「自分でものを考えない人生を送ってもらう」ようにして、社会の構成要素として「使いやすい」人になってもらう、というような、ね。で、この「三つの要素の等式」があてはまらない人が圧倒的に多いわけだから、社会の秩序が維持できる、と、これまたそう考えちゃう人もいる、ってことだな。

【頭の良さと裕福さは関係ないけど「親ガチャ」がある】
今は「頭が悪くて学校の成績も悪いけど裕福」がいるんだが、そこには「親ガチャ」という別の言い訳も配備されてるわけだな。それのどれにもあてはまらなければ「運」という他はない、というように幻想を構築しているんだよな。

【「幻想の共有」が文明を作る】
人の文明やその文明を作ってきた基礎にはこういう「幻想の共有」があるんだろうね。価値観の共有、というものがこういう幻想で裏打ちされている、というかね。それは多少形は違っても、どこの地域でもあったことでね。それが「文明」の根本にあったんでしょうね。

養老孟司先生が「そんなの幻想だけどよ、でも、みんなそれで生きてきたんだよな」ってことを言ってるんだけど、わかるなぁ、と、ぼくは最近思うんだな。

人間ってのは、そういう動物なんだなぁ、と。

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