TheBazaarExpress98、婦人公論インタビュー~神山典士、ノンフィクション作家

(プロフィール)

こうやまのりお 1960年埼玉県生まれ。84年に信州大学卒業後、編集プロダクションを経て独立。96年『ライオンの夢 コンデ・コマ=前田光世伝』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。2014年、佐村河内守氏の疑惑を追及した『週刊文春』の記事で第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞

(本文)

耳が聞こえないと

信じきっていた

私は『週刊文春』(2014年2月13日号)に「全聾の作曲家はペテン師だった!」という記事を書き、聴覚障がい者でありながらクラシック音楽の作曲活動を続け、“現代のベートーベン”と呼ばれていた佐村河内守さん(50歳)の嘘を暴きました。彼の作品には新垣隆さん(43歳)というゴーストライターがいることを明かし、さらに本当は耳が聞こえるのではないかという疑惑も追及したのです。

私が佐村河内さんに初めて会ったのは、11年12月、義手のバイオリニスト“みっくん”(当時11歳)が杉並区の小さなホールで行ったリサイタルの会場でした。のちに私は『みっくん、光のヴァイオリン』という書籍を上梓するのですが(13年1月刊行、現在は絶版)、その取材のために訪れた会場で、みっくんの “音楽の師”として佐村河内さんを紹介されたのです。

書籍の担当編集者からは、佐村河内さんは耳がまったく聞こえないこと、そしてみっくんは佐村河内さんから贈られた曲をリサイタルで弾いていると聞いていました。後にフィギュアスケートの髙橋大輔選手が、ソチ五輪のショートプログラムで使用して話題になった「ヴァイオリンのためのソナチネ」です。

コンサートが終わって、彼とあいさつをしました。もちろん、手話通訳を挟んで。そのときは耳が聞こえないと信じきっていましたから。

みっくんの本を書くために、その後、佐村河内さんとは取材で何度も会いましたし、自宅を訪れ、奥さんとも会っています。記事が出る1ヵ月前までは「典士さん、典士さん」と親しくメールが来ていたほどです。

そういえば、佐村河内さんと一緒にみっくんが出場したコンクールを観に行ったこともありました。この場で新垣さんにもお会いしています。実は新垣さんは、みっくんが4歳のころからピアノ伴奏を務めていて、一家とは親しい間柄でした。もっとも、このときは新垣さんを伴奏者の一人としか思っていなかったので、会ったことすら忘れていたのですが。

そのとき撮った1枚の写真には、みっくん一家と新垣さん、そして私が写っています。まさかこのメンバーで佐村河内さんを告発することになるとは、夢にも思いませんでした。

「すべての作品を

作ったのは私です」

騒動の発端は、昨年の11月末に、新垣さんがみっくんのご両親から相談を受けたことでした。佐村河内さんがみっくんに対し、「プロを目指すならクラブ活動をやめろ」「やめないならバイオリンもやめろ」などと酷い要求をしてきて困っている。いくら師匠であっても我慢しなければいけないのか、クラシック界ではこんなことがまかり通るのか――という相談だったといいます。

そしてご両親の訴えを聞いた新垣さんは、思いがけない行動に出ます。「私が彼を増長させてしまった。すべての作品を作ったのは私です」と、後日ご両親に告白したのです。新垣さんは同時に、みっくんが佐村河内さんに渡した小学校の管弦楽クラブの編成メモを、ゴーストだった証拠として持参していました。無関係なはずの新垣さんが持っていたことで、両親も彼の話を信用したのです。

事実を知って驚いたみっくんのお父さんは、12月に入って、娘の本を書いた私に連絡してきました。その本のために、佐村河内さんに何度も取材していますし、知らせておいたほうがよいと思ったのでしょう。

「神山さん、大嘘でした。佐村河内先生は曲も作っていなければ、耳も聞こえるんです」

お父さんの話を聞いて、私も呆然としました。佐村河内さんが曲を作っていないのなら、私が書いた文章もまた嘘になってしまいますから。

その後、新垣さんとも面会し、赤裸々に事実を語ってもらい、メールなどのやり取りも見せてもらいました。しかし、この話を聞いて、「じゃあすぐに公表しよう」とは思いませんでした。公にすることで、クラシック界はメチャクチャになってしまいます。たとえば、佐村河内さんの「交響曲第1番“HIROSHIMA”」を演奏した東京交響楽団。指揮者は大友直人さんで、いずれも新垣さんにとっては尊敬する人たちでした。彼らを奈落に突き落としてしまうことになる。さらに、クラシック界の中で、みっくんの今後の立場もなくなってしまいます。

 そこで新垣さんは当初、自分と佐村河内さんがフェイドアウトすればよいと考えました。何年も曲を出さなければ、世の中は忘れるからと。ところがみっくんは、「私はこれからも『ソナチネ』を弾きたい」と言った。でも、「弾くたびに『作曲・佐村河内守』というクレジットが出るのはいやだ、本当に作った新垣さんのクレジットにならないのであれば、弾きたくない」と。そのために、すべてを公表することにしたのです。

デジタルデータが

動かぬ証拠に

記事を書くにあたり、「『週刊文春』に、あなたの作曲について重大な疑義があることを書くので、校了までにインタビューに応じてもらえるならば連絡をください」と佐村河内さんにメールをしましたが、彼からは何も返事がありませんでした。しかし雑誌で事実を暴かれることを知った佐村河内さんは、関係者にあわてて相談したのでしょう。発売前日の朝、NHKの朝の情報番組で突如「お詫び」が読み上げられ、「自分では作曲していなかった」という事実が世に知られることとなりました。

佐村河内さんは、NHKをはじめ、多くのメディアが後押ししてきた存在です。『週刊文春』1誌だけでは簡単にひっくり返せるようなものではないと私は考えていたので、いきなり全面的に疑義を認めたのにはびっくりしました。

彼があっさり認めたのは、強力な証拠がいくつもこちらにあったから。嘘をつき通せないと観念したのでしょう。作曲の指示書もそうですし、佐村河内さんと新垣さんの何年にもわたるやりとりが、新垣さんの携帯電話に残されていました。そもそも「耳が聞こえないないからメールでやりとりをしよう」と提案し、携帯を購入して新垣さんに渡したのは佐村河内さんです。皮肉にもこのデジタルのデータが動かぬ証拠となって、彼は追い詰められたのでしょう。

その先にある真実を

誰も追及できなかった

 振り返ると、この騒動には「3つの迷宮」があったと思います。まず1つ目は、「聴覚障がい」という迷宮です。聴覚の障がいは、耳鼻科医ですら、客観的に症状の有無を見分けるのが非常に難しい。脳波を調べても、「聞こえない」と本人が主張すれば、障がい者として認定される。

また、私自身、中途失聴の場合は流暢に話ができるという知識がありましたから、佐村河内さんもむべなるかな、と思ってしまった。話している口元や顔の動きを見て言葉を理解する口話術も、妙にうまいなとは思っていましたけど(笑)、夫婦の間で手話通訳を通して会話しているのを見たら、「本当は聞こえているんじゃないの?」とは思いません。

 2つ目は、「クラシック」という迷宮。よほどの専門教育を受けていない限り、曲を聴いたり譜面を見たりしても、マスコミの人間がその価値を判断できるものではありません。まして佐村河内さんの作曲した(実際はしていませんでしたが)『交響曲第1番HIROSHIMA』は、240ページにも及ぶ大作です。素人が譜面を見てもチンプンカンプンですし、本物かどうか確かめようがない。

 そして3つ目は、「被爆2世」という迷宮です。広島市内では、被爆した1世の方が突然倒れたり、2世であっても体調が悪くなったりする人がいるという意見もあれば、被爆と健康状態に有意な関係性はないとする意見もある。つまり限りなくグレーなのです。しかし広島の外に一歩出ると、被爆者は無条件に「かわいそうな宿命を負っている人だ」と思われてしまう。佐村河内さんが突然耳が聞こえなくなり、あれだけの薬を飲んでいるという事実が、「広島の被爆2世ならばおかしくない」というリアリティを与えてしまった。

こうした3つの迷宮――つまり、不可侵な3つのタブーが重なり合って、その先にある真実を誰も追求することができなかったと言えます。

 さらに言うと、米『TIME』誌が01年に初めて佐村河内さんを「現代のベートーベン」と取り上げたという逸話は有名ですが、あれ自体にも嘘っぱちがある。原文を見ると、正確には「デジタルエイジのベートーベン」となっているのです。それがいつの間にかすり替わり、翻訳の過程で「現代の~」になっていた。受けるイメージがまったく違いますよね。

こうした細かな嘘から、「耳が聞こえない」という大きなものまでが複合的に組み合わさった結果、07年に講談社から自伝が出版され、08年に広島市から広島市民賞を授与される。決定的だったのは13年3月に『NHKスペシャル』で取り上げられたことで、それ以降CDの売り上げがクラシックでは異例の10万枚を超えるヒットになっていきます。

これらが彼一人の計画のもとで実行されたのならば、相当な策士ですね。新垣さんによると、佐村河内さんも途中で何度か挫折しかけたそうですが(笑)、諦めなかった彼の執念にはすさまじいものがあります。

『週刊文春』の記事が出る前、広島に住む佐村河内さんの父親にも話を聞きに行きました。彼の口調からは、息子の自伝を読み込んでいることが伝わってくる。「息子には、もっと大きいことをやってもらわなきゃ」と言っていましたが、本心ではいったいどんな気持ちだったのでしょうか。家族もつらかったと思います。

 公表から4ヵ月たって思うのは、やはり相手の世界にどっぷり入ってしまうのは危険だということ。距離を置き、怪しいなと思ったら引いてみることが大事だと思います。私は仕事柄、相手とは引いてかかわっていたはずなのに、それでも騙されてしまいましたが……。

 現在、新垣さんは本来の音楽家として、新たな活躍の場に一歩を踏み出しています。これからは表舞台に出て、観客とかかわって、彼の才能を花開かせてほしい。私も応援していくつもりです。

超えてはならない

一線がある

 今回の騒動では「ゴーストライター」という言葉がクローズアップされました。「ゴースト」を批判した私自身、出版業界に身をおいて、これまで何十冊も「ゴースト」として本を書いてきたという事実があります。経営者、スポーツ選手、芸能人など分野はさまざまですが、商品として世に出すために、プロが話を聞き、本人に代わって1冊にまとめるという仕組みがなければ、世の中の多くの本は書店に並びません。

語り手に憑依して文章を書き、世の中の人に読んでもらうことは大きな快感を与えてくれます。だから新垣さんが佐村河内さんの曲を作り、多くの人に聞いてもらえて嬉しかったという気持ちは、よくわかります。

 でも、そこには超えてはならない一線がある。「作家」を名乗る人の後ろにゴーストライターがいては絶対にいけないのです。もちろん、「作曲家」も然り。

 佐村河内さんの罪は、ゴーストライターの存在を隠していたことや、聴覚障がいを装っていたことだけではありません。みっくん以外にも、障がいをもつ子どもたちとかかわり、震災の被災者など弱い立場にある方たちを“佐村河内守”ブランドのために利用したことも、見過ごせません。彼が謝らなければいけない“市井の人”が、世の中にはどれだけいることでしょう。

また、この騒動がきっかけとなり、聴覚障がい者に向けられる「本当に耳が聞こえないのか」という疑惑への責任をどう取るつもりなのか。

佐村河内さんにとって、1つ1つは小さな、自分が売れるための嘘だったのでしょうが、犯した罪は思った以上に大きいのです。

(写真キャプション1)

2010年4月4日、東京・豊島区の東京芸術劇場にて、東京交響楽団とコンサートを行った佐村河内氏。会場からの大きな拍手は、彼の耳に届いていたのだろうか

(写真キャプション2)

佐村河内氏に代わり曲を作り続けてきた作曲家の新垣隆氏(当時は桐朋学園大学非常勤講師)の記者会見(2014年2月6日)。8月19日に札幌コンサートホールキタラにて「新垣隆の世界」を開催予定

(写真キャプション3)

2014年3月7日、都内で初めての記者会見を開いた佐村河内氏。300人以上の報道陣が詰め掛けた会場には、トレードマークだった長髪を切り、サングラスをはずして登場した

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