TheBazaarExpress59、大正生まれ、昭和を飾ったエロティシズム~浅草ロック座斎藤智恵子編

 銀色に光るその重い扉を開けるとき、健一郎(仮名)が感じる高揚感は何度通っても変わらない。

絢爛、豪華、妖艶、繚乱―――、高い天井から突き刺す幾多のライトに照らされて、ぽっとピンクに染まる艶やかな女体のライン。

 頭に羽飾りをつけて網タイツを履いたバニー姿のショーガールの群舞、

舞台中央にポールを立てて怪しく身体をくねらせて舞うポールダンス、

和装の踊り子が演歌にあわせて着物を一枚一枚脱ぎ捨てていく艶やかな舞い。

そこにあるのはラスベガスのショーのような、アップテンポのリズムに乗ったこれみよがしの豊満な女体美や美貌の羅列ではない。

 着物一枚を脱ぎ落とす刹那の一瞬の「間」のとり方、

最後の襦袢がスルリと腰のあたりを通過するときに天に翳す掌の舞い方、

伏目がちに恥じらいながらチラリと客席を見つめる潤んだ瞳―――、

張りのある乳房やピンクの乳輪、豊かな腰回りや陰りの奥にある秘部も十分に魅力的だけれど、むしろそんな踊り子の「陰影」を目にした時こそ、健一郎は背筋がぶるっと震えるような興奮を覚えた。

 ストリップの伝統と呼ばれる「浅草ロック座」。健一郎が足しげくここに通ったのは30代の前半、いまから約10年前の事だった。

出版社勤務の健一郎は、朝が遅い。12時から始まるロック座の最初のショーを約1時間ほど見て、その後モギリのお兄さんに「外出してきます」と言って会社に向かう。編集部で何食わぬ顔をして働いて夜11時ころにロック座に戻ると、最後のショーが始まるところだ。

 健一郎は疲れた身体を椅子に静め、顔なじみになった踊り子には「よんちゃーん、おっぱい綺麗だよ~、れいか姉さーん、相変わらず踊りが上手だね~」と心の中で呼びかけながら、ウイスキーのポケット瓶を一本飲み干すころには、ちょうど舞台もはねてほろ酔い気分になっている。

顔なじみの踊り子の誕生日には、近くの花屋で花束をつくってもらうのも常だった。

 花束の値段は3000円、5000円、1万円。その日の懐具合と、その日誕生日の踊り子との心理的な距離でオーダーが決まる。大きな1万円の花束を客席に持ち込んで、「デベソ」と呼ばれる客席中央に張り出した円形の舞台の下から踊り子に手渡すときの快感といったら―――。

「あ・り・が・と」―――舞台の上から小声で呟く踊り子のぽってりとした唇と艶かしい視線は、その瞬間自分だけのものになった気がしたものだ。

 もちろん美しい女の裸が見られるのはストリップだけではない。アダルトビデオもあるしネットにも動画は氾濫している。抜きたければソープもあるし、デリヘルもある。酔って遊びたいのなら、おっぱいキャバクラでもいいのだろう。

けれど健一郎はそういう「風俗」には、友人たちからは呆れられるほどに頓着がなかった。

―――なんであいつ突然ストリップにはまっちゃったんだ?

仲間はそう言って不思議がった。彼らから見れば、健一郎は高学歴、独身貴族、およそ風俗とは無縁の真面目タイプだったからだ。唯一女の前で気の利いたセリフが吐けないのが弱みだったが、それとてこの歳になれば、お金や「結婚」を餌に解決できないわけではない。けれどそのたびに、健一郎は心の中でこう呟く。

―――舞っている踊り子と視線が合う瞬間の快感がお前らにはわからないんだよ。あの視線が「よくきてくれたわね」と言ってくれてるんだ。あの瞬間は自分だけのために踊ってくれているんだから―――。

そう信じて通い続けた5年間だった。

                 ※

「おっぱいもあそこも簡単に見せちゃダメなのよ。見せちゃったらそれで終わりなんだから。隠して隠して最後にちょっとだけ見せてやるの。それが色気ってものでしょうが。色気ってものに男の人は弱いのよ。ブスでも色気はあるの。男の人は顔ばっかり見てるんじゃない。ちょっとした仕種の中に香る色気のために、劇場に通ってくれるんだから」

ロック座会長・斎藤智恵子がいたずらっぽい笑顔を作って言う。大正末年生れ、今年11月で88歳になる計算だが、とても米寿には見えない肌の艶と張りのある声だ。斎藤のことは、誰もが「ママ」と呼ぶ。興行界ではもはや伝説の女傑だ。

だが最近では経営は孫たちに任せて、あまり人前にはでなくなった。その肉声を聞けるのは、極限られた身内の人間か、親しい者しかいない。

80の声を聞くまでは、斎藤は毎年のように海外に遊んでいた。ラスベガスには踊り子に本場のレッスンを受けさせるための宿舎になる別荘が5軒もあったし、ハワイでは100人からの招待客を連れて孫の結婚式もあげた。アマゾンへは踊り子を8人も連れて行き、日系人のために興行を打ったこともある。

けれどさすがに近年は遠距離の移動は避けるようになった。今年は胸に腫瘍が出来て体調を崩し、手術も二回受けた。それでも2週間ほどで退院して、戸倉上山田の大衆劇場と浅草の劇場を行ったり来たりする生活を再開している。その手に5000円札を握りしめ、毎日夕方から卓を囲む半荘一回の麻雀も健在だ。周囲のスタッフに指示を出すかくしゃくたる言動は、少しも揺るぎない。

浅草ロック座は、昭和46年、踊り子になって10年目に斎藤が買い取った。その時は木造だったが、その後昭和58年に現在の8階建てのビルに改築している。当時で約2億円と言われる豪華で最新式の照明や音響設備を備え、その最盛期は全国に20館とも30館とも言われたロック座グループの旗艦店として、現在も君臨している。

斎藤が踊り始めたのは30代も半ばのことだった。終戦後、故郷の宮城県白石を出て東京の学校に通っていた斎藤は、旅役者に惚れて若くして結婚。二児をもうけた末に夫とは離婚(後に夫は結核で早世)し、女手一つで子どもを育てるために、浅草のストリップ小屋奥山劇場で踊り子たち相手に故郷で名取を得ていた日舞を教えていた。その時小屋主が言った。

「教えるよりも自分で踊っちゃった方がギャラがいいよ」

当時踊り子の師匠のギャラは一カ月一人2000円。ところが舞台に立って一カ月(20日間)踊れば大卒初任給の二倍の約3万円になった。

当時を振り返って斎藤が言う。

「そりゃ恥ずかしかったですよ、人前で脱ぐなんて。でも、子どもを育てないといけなかったし家もほしかったから、えいやっと思い切ったんです。舞台に出る前はあんまり恥ずかしかったので、酒をきゅっと煽ってほろ酔いででていました。ある時はほろ酔いで足元がふらついて、着物の裾をふんずけてひっくりかえったこともありました。見せなくてもいい着物の奥まで客に晒しちゃってね。でも、それが受けたんです。恥ずかしいから色気が出る。いくつになっても何年踊っても、恥ずかしいという気持がなくなったらダメです。恥ずかしくなくなったら色気がなくなる。私は初めて舞台に立つ子には、長襦袢を舞台で間違って落としたふりをして、それを拾って隠せと指導しています。そういう恥じらいのある仕種が色気に繋がるんです」

踊り子になった当初、斎藤は故郷にいた末妹恵美子を呼び寄せた。当時16歳。当初斎藤は、「お前は歌が上手いから歌っていればいいよ」と言っていたが、他の踊り子やバンドマンと一座を組んで北海道に巡業に出てみると、話が違った。

「私だけ脱がないわけにはいかないじゃないですか。小屋主さんがギャラを払ってくれませんから。ママも困って、片方のおっぱいだけでいいから出してくれって言うようになったんです」

以降斎藤は自分の周りに踊り子を集め、いくつもの一座を組み、当時日本中に数多あった劇場を巡業させていく。当時も今も興行界は男社会だが、斎藤は女であり自分も踊っていたことで踊り子にも信頼された。男の噂は耐えなかったが、決まった男性は作らなかった。二度と結婚はせずに独身を貫いたことで各地の小屋主の下心を刺激して、あれこれ「誘い」がかかった。

「斎藤さん、小屋を買ってみないかい」

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