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吉田松陰と現代 (加藤 周一)

 吉田松陰(よしだしょういん 1830~59)は、長州藩出身の幕末の思想家です。
 1839年、9歳にして藩校明倫館で山鹿流兵学を講義し、翌年には藩主に「武教全書」を講義するなど、早くから才能を認められていました。その後、江戸で佐久間象山の門下に入り密航失敗。投獄されますが、自宅謹慎中の1855年、長州の萩城下東郊に私塾を開きました。有名な松下村塾です。

 この塾で松陰が講じたのはわずか数年間ですが、その間、久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・前原一誠らの幕末・維新期に活躍した多くの志士を育てました。

(p10より引用) 松陰に象徴される下級武士層の青年たちは、批判精神と正義感があったのです。万事はそこからはじまったといえるでしょう。

 なぜ、萩という小さな地方都市の「松下村塾」からこれほどの維新期の人材が輩出されたのでしょう。そもそも、なぜ「松下村塾」にこれほどの人材が集まったのでしょう。

 その中心にいた吉田松陰の魅力とは、一体何だったのでしょうか。
 松陰の人間的魅力の源泉として加藤氏は以下の2点を挙げています。

 第一には、その人格です。

(p15より引用) 思想の枠組みは大勢の人と同じようなものです。しかし松陰の場合には、それがほとんど人格の全体に浸透していて、弟子たちや周りからみると彼が言った改革の要求が、青年層の政治への参加要求の象徴みたいなものになった。あるいはその人格化みたいなものにみえたのでしょう。ヨーロッパ語でいえば personification、濃厚に人格化された存在になった。

 第二は、思想の中身です。
 当時は、「開国」か「鎖国」か、また、「佐幕」か「尊王」かという対立政策に「攘夷」という別概念が混ざり込んでいました。
松陰は、「開国」と「攘夷」の組み合わせを選びました。
 ただし、加藤氏によると、松陰のいう「攘夷」には注釈が必要だと言います。

(p19より引用) 彼の考えた「攘夷」とはいますぐ外国人を追い払うというのではなく、・・・何とかして、少しでも独立の言い分を通す工夫を重ねようという意味です。

 松陰の魅力は、理性的な認識と情熱的な活動だといえそうです。

(p20より引用) 松下村塾の松陰になぜ魅力があったのか。
 それは政治的情熱の肉体化したものだから、運動の中心的象徴になったから魅力があったと先ほど言いましたけれど、それだけではない。政策のプランを持っていた。その時期では比較的少数意見でしたが、最も現実的な考え方でした。

 本書は、2004年10月、萩市民館にて行なわれた加藤氏の講演内容を整理し加筆したものです。
 講演のテーマの「吉田松陰と現代」という点に関して、加藤氏は「現代にも通じる松陰の姿勢」として以下の点を指摘しています。

(p33より引用) 独立の精神であるとか、突拍子もない空想的なことを言うのではなくて現実的にどういう可能なプログラムがありうるかということを執拗に追求することとか、しかもそれを勇気を持ってやるというようなことは、いまでもそのまま通用することではないでしょうか。

 松陰は、“行動的ヴィジョナリスト”だったということでしょう。


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