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教養の再生のために (加藤 周一他)

(この場合は、いわゆる「一般教養」のイメージを思い浮かべて)
「教養」とは何か、「教養」は何の役に立つのかを加藤周一氏、ノーマ・フィールド氏、徐京植氏で論じ合ったものです。

 加藤氏は「教養」について、教養主義とテクノロジーとを対比させた形で以下のように説明しています。

(p39より引用) 一つはテクノロジーの文化であり、もう一つは、教養主義の文化です。テクノロジーはたとえば旅をするときの手段に関係している。自動車はや飛行機や高速鉄道。教養は、どこへ行くか、何を見るのか、旅の目的は何かということで目的に関係している。

 同様の趣旨のことをこういった例示でも示しています。

(p135より引用) 加藤さんは、よく教養というものを自動車に喩えられるんですね。・・・
 自動車をつくる技術、操縦する技術ということと、その自動車でどこへ行くかということとはまったく違うことです。自分がどこへ行くかを自分自身が決めるためには、教養が必要だということなのです。

 また、このような「教養」の意味づけを踏まえ、「専門知識」との関わりを考えたとき、加藤氏は両者の関係を補完関係にあると捉えています。

(p112より引用) テクノロジーはどうしても必然的に専門化を要請します。・・・教養というものは、専門領域の間を動くときに、つまり境界をクロスオーバーするときに、自由で柔軟な運動、精神の運動を可能にします。専門化が進めば進むほど、専門の領域を越えて動くことのできる精神の能力が大事になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養なのです。だからこそ科学的な知識と技術・教育が進めば進むほど、教養が必要になってくるわけです。
 ですから教養とテクノロジーは対立するものではなく、いま言ったような関係はむしろ、両方が重なって補完的になるべきものだと思います。

 さらに、徐京植氏がいままでの議論を総括した俯瞰した立場から「教養」の意味づけを以下のように整理しています。

(p166より引用) 「人間は徳と知を求める存在である」・・・そのために必要な教養とは、自分のいる場所を世界のなかで広くとらえる、歴史のなかでとらえることができる、内側と外側から見ることができる、ということです。

 「教養」とは、ものごとの位置づけ・意義づけ・意味づけを考えるにあたって、思考の基盤・価値観の軸をつくるための「基礎機材」だということでしょう。
 「教養」は「専門」である必要はないのです。「教養」は専門的な目的がない方が、(教養としての)目的に合致しているともいえるのだと思います。


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