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ヴァイオレット・エヴァーガーデン

昨日TVでヴァイオレット・エヴァーガーデンを観る。
以前からいろいろなところで噂を聞いていたので気になっていた。

人は日常以外の認めることができない大きな悲しみに遭った時、泣くことで認めるというそれさえしなくなり、涙を身体中に溜め込んでしまう。

何故だろう。

涙を流してしまえば今悲しみに遭っていることを認めることになってしまう。
悲しみに打ちひしがれている自分は否定していたい、そのように抱えきれない事象だからだろうか。

認めることができないほどの悲しみをなんとか認めなければ前に進めない時、言葉はそれを受けてくれる誰かを必要としていると感じる。

ヴァイオレットは自らの悲しみに向き合わなければならない状況であるにも関わらず、本人はそれに気づくこともできないままただ人々の悲しみや想いを受ける司令だけをこなしていてその未成熟さが切ない。

本当は悲しみの言葉を探し出し、それを誰かに聴いてもらわなければならないのはヴァイオレットなのではないだろうか…。

「少佐が最後に言われた『愛している』の言葉の意味が知りたいのです。」
とヴァイオレットは言う。

その本人の悲しみを認めざるを得ない言葉探しが、『愛している』という言葉であるとは、
言葉探しの長い旅は、とても長く、たどりついても辛い旅のようだ。

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