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歳を取ることで人生の可能性は失われるのか?

「歳を取るにつれて可能性は失われていく。ただ、それを『受け入れていくこと』にこそ人生の妙味がある」。こんな内容のポストを見かけた。いま47歳の自分としては、この考え方に深くうなずくところがある。

一方で、歳を重ねることで失われる可能性って、「立身出世」の文脈での話である気もする。世の中を驚かすような達成、会社での出世など、世間の誰もが認める成果を出す可能性は確かに歳を取っていくことで減じていくようにも思う。ただ、可能性ってそういうものだけではないのでは?というのが最近思うところ。

個人的にも、独立してからの3年半くらいで、「公認心理師取得に向けて放送大学の学部課程から学ぶ」「高校数学の基礎から勉強する」「ピアノを弾いてみる」「中国語の勉強を再開する」みたいに、自分がいまやってみたいなということを、世間の目とか気にせずにコツコツやっていて、歳を取ることは別の可能性に開けてるのではないのかというのを実感している。

社会的に大きな成果を出して称賛される、といった文脈の可能性ではなく、それが仮に小さく個人的なものであっても、何か新しいことを試してみる可能性。この意味で捉えれば、それは年齢を問わず広くさまざまな領域で可能性が開けてくるのではないかと。私もこのことに40代半ばで気づいてからは、自分の目の前に多様で奥深い可能性が開けている気がして、人生が楽しくなってきている。

これは私が若い頃に人の目や世間体をすごく気にするタイプだったからもありそう。こういう特性を持っていると、若い時「ほど」可能性に対して自分を閉じちゃうんですよね。人の目ばかり気になって、自分が心の中ではやりたいなと思っていることに集中できないので。何かに手をつけては人の目が気になっていつの間にか止めてしまうことを繰り返していた若い頃の苦い記憶がよみがえる。

そんな私でも、歳を重ねていろいろと経験すると、ああ他人の目なんて気にしてても仕方ないなと思えるようになった。さらに加齢によって鈍感になるのとセットで、いまは自分がやりたいなと思うことを毎日コツコツやってるだけで生きている充実感がある。 この感覚を一般化はできないよなと思いつつも、歳を取ることって案外悪くないし、新鮮な気持ちで新しいことに挑戦できる可能性にも開けてるんだなと思っている。

なので、何度もXで紹介してるけど、たけしさんのインタビューで語られていることが、今の自分にいちばんピッタリとはまる。たけしさんがピアノを「小学生がやっているようなレベル」からやっているように、私もコツコツを高校基礎レベルの数学の問題を解いたり、中国語学習アプリを毎日少しずつ進めていると、それ自体がなんだか生きている感覚につながっていると思う。

最近俺はよくピアノを弾いている。もう小学生がやっているのと同じようなレベルでやっている。だけど心の中では、死ぬまでにちゃんとした交響曲を弾いてやろうとか、フジコ・ヘミングみたいな演奏をしてやろうとかそんな野望を持ってるわけ(笑)。

 無理かもしれないことは自分が一番よくわかってるんだけど、それでもやるのが大事なんだよね。「他人からの評価」じゃなく、自分が決めたところに向かっていく。そう考えることができれば、どんな小さなことでも、それだけで「生きていく理由」になるんじゃないか。

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あと、育児のおかげも、ものすごくある。娘たちと毎日一緒に生活していると、人生にはビジネスとはぜんぜん関係ないところに、とても楽しいこと、深みのあることがたくさんあるという至極当たり前の事実に気づく。こんな当たり前のことすら、仕事人間だった私にはよく理解できてなかったし、私がビジネスを通じて知ってた「社会」なんてほんの表層をなぞってただけなんだなと思う。

私はいまでもビジネスがすごく好きだし、そこには人生を賭けるに値する面白さや価値もあると思う。ビジネスが生み出す価値が、社会に新しくワクワクする何かをもたらしたり、困っている人を助けたりすることはたくさんある。でも、娘たちとの生活は、多くの「ささやかだけれど、大切なこと」に満ちている。そのささやかさをいまの私は愛しているし、それによって、仕事やこれからの人生に今までとは違った形の「可能性」を感じている。

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