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発音が気になって仕方ない。

それは言葉の変化ではない

言葉は変化するもの。
いわゆる日本語の乱れが指摘されるたびに、この種の意見が出るが、殆どが若者言葉や新語に対してのものだ。私は言葉遊びにも似たそれらを指して何かを言う気は全くない。
それこそ「言語は変化するもの」だからだ。
しかし、「意思を伝える」という言語の基本機能を無視した発音に対し、言葉の乱れを指摘することがないのが不思議でならない。
最近の日本人の会話で、表意文字としての言葉の意味を全く考えず、単なる記号のように扱う” 平板アクセント”が目立つ。特にテレビ・ラジオに登場するしゃべりのプロたちのほぼ全員がそうだ。ナレーション原稿を平板読みするケースはもう、目立つというレベルではない。
これはもちろん言語の変化だ。しかし、言語から言語の機能を奪う変化である。

平板アクセントの感染

いま日本語は、「犬を飼う」は「犬を買う」と発音し、「読んでください」と促す際に、「呼んでください」と言う。天気予報ではついに「雨」を「飴」と発する天気予報士が現れた。朝の交通情報で「新宿発」は「新宿初」となり、「全線で運転中止」は「前線で運転中止」に変わった。たまに吹石一恵さんなどが、ナレーションでしっかり「東京発」などと発音すると、むしろ新鮮に感じるほどだ。
一文を続けて平板読みするのも昨今の特長だ。「森や木が存在しない」と言うとき「モリヤキガソンザイシナイ」と続けて“平板アクセント”で読む。漢字で表せば「森や気が存在しない」となるが、ひどい場合はまるでAIが話すような奇妙ささえ感じる。最初、このように記号の連なりのように言ってから、おかしいと感じて言い直すケースも目立つが、これは基本的な意識が、その言葉の意味に関わらず“平板アクセント”に傾いているからだ。
これらの理由として、分刻みの番組進行には“平板アクセント”によるスピードの方が合うという予測が立つが、定かではない。しかし、一つひとつの語の意味を頭に入れて読めば、それだけスピードが落ちるのは事実だ。

日本語の非言語化

小学校低学年の頃の学習雑誌に、牛若丸と一寸法師を登場させて「京の五条の『橋』と、『箸』の櫂の『箸』の発音を間違えないように」と書かれたページがあったのを覚えているが、既に「橋」(尾高)と「箸」(頭高)の区別はできないのではないか。NHKの朝のニュース番組で「柿」を「牡蠣」と発音する時代だ。こんなことはもう日常茶飯事なのだ。
もちろん天気予報で「飴」と言っても「雨」と解釈することはできる。しかし、前述の”平板アクセント”が野放図に広がれば、本来の意味を想像して理解することは不可能になるだろう。私は現に、一瞬何を言っているのか分からないことが時々あるが、テレビ番組の出演者は、局アナを含め、おかしいなと思っても聞き流せばいいだけの話なのだ。
このような態度が底流にあるから、吉田羊さんが他ならぬNHKの番組のナレーションで、朝ドラ「まんぷく」を、「満腹」ではなく中華料理店の「万福」のように平板読みするのである。
このように問題視されず放置され続ける日本語の発音の乱れだが、意味の区別が不可能になりコミュニケーションに障害が起きれば、「意思を伝える」という言語の基本機能は低下する。まして、記号の連なりのように速く音を平板でつなげる話し方で意味が伝わるほど、日本人のリテラシーが高まっているとは到底思えない。
言語の基本機能が衰退しつつあるのだから、これは日本語の“非言語化”を意味すると思うが、依然として問題にもならない。

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