本13 日高晤郎フォーエバー  川島博行

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 50歳を2年も過ぎたのに、あいかわらず愚図。何をやりたいのか、何が出来るのか、あるいは何も出来ないまま死んでゆくのか。まったくうだつの上がらない毎日を送っている自分だが、こんな自分にも、ほんの少しでも善き影響を与えたものがあるとすればそれは間違いなく「日高晤郎ショー」である。

 毎週土曜日の9時間。
 雑学から専門的な話。深く広く、笑いのスパイスを入れてそれら知識を惜しみなく提供し我々を楽しませてくれた。
 その緩急効いた語り口は時に音楽的ですらあった。
 本当に見事なラジオ芸であったと思う。

 笑わないで過ごすことがとても無理な9時間であった。
最初にこれを聴いたのは就職で出てきた札幌の、仕事場所である倉庫の中だった。そこにはラジオカセットが置いてあり、責任者の課長が毎週土曜日「日高晤郎ショー」にチューニングを合わせるのだった。
 笑いはもちろん、怒り、熱い語り、泪、それら喜怒哀楽の起伏はこれまで聴いていたどのラジオ番組とも次元が違っていた。

 それでも私は、すぐさまこの番組に熱中し出したわけではない。
 それはじわり、じわりと私の魂の中の核に深く浸透していった。
 思い出すのは晤郎さんが、市川雷蔵との想い出を語った回だ。それを聴くともなしに聴き、しだいに私は金縛りに遭ったように動けなくなった。おそらく、その時の放送が決定打になった。

 それ以来、毎週土曜日が楽しみだった。
 土曜日のために生きていると云ってもよかった。
 月曜日から金曜日、そして日曜日に苦い出来事があっても、土曜日の「日高晤郎ショー」があれば私は乗り越えることが出来た。
 そしてそういった人たちがおおぜいいたのも知っている。
 スタジオにも何回か行った。
 手紙やメッセージを読まれたこともあった。
 いくつかプレゼントを貰った。いろいろ送られてきたが、中に牡蠣があって、それを喜んで喰ったらひどい食あたりをしたことを思い出す。(これは、調理の仕方あるいは管理が悪かった自分の責任である)。
 生そばを頂戴し(これは晤郎さんから直接手渡しだった)、これも自分のせいですぐにカビだらけにしてしまった。
 今となっては晤郎さんに、そしてスポンサーの方やスタッフの皆さんにとても申し訳ないことをした。

 そんなこんなで懐かしい、楽しい思い出だらけの「日高晤郎ショー」が、もう聴けないという現実は、とても辛いことである。
 でも私たちは生きていかなければならない。何とか乗り越えていかなければならない。
 あの時代、あの空間、あの時の笑いと涙。思い出すことによって歩き出すことが出来るのならば、たまに後ろを振り返って、また笑顔をとり戻して生きていけたらいいのではないか。そんな風に思う。
 そうすることが晤郎さんに対する御礼と恩返しになるような気もしている。

 この本は生前の晤郎さんと親交のあった人たちの思い出話、そして晤郎さんが語った若い頃の話。役者として駆け出しだった頃の話。生い立ちなどを語った1冊であります。
 とりわけ、晤郎さんの奥様が語っている箇所はとても興味深く読んだ。私がこれまで知ることのなかった晤郎さんの顔がそこにあった。新鮮だった。それだけでもこの本を読む価値があった。

 私にとって、日高晤郎という芸人は、私の人生にとても大きな影響を与えた人物。私の人格の三分の一を形成した偉大なるトリックスター。そしてラジオが大好きな私にとって最高のラジオ番組を作り上げた最初で最後の人物である。


 私は「日高晤郎ショー」が毎週土曜日に聴けなくなって、本当に寂しい。

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