ノリユキ

本を読む パンクロックを聴くやうに

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最近の記事

「わたし走り方少し変だったんだよね」と彼女がわらった。

どんな言葉で謝ればいい? 隣りで眠るのは亜麻色の髪の女だった。 彼女はキャバクラで働いていた。 といっても、社交さんではなく今ではキャストの女の子たちにアドバイスをしたり、フォローをしたりする立場、いわゆる黒服の女性版だった。 もともとは本人も客につき、サーヴする側にいた。 その頃の彼女は、指名はいつもトップで(写真指も本指もずば抜けていた)、客にもスタッフにも評判のいい娘だった。 すすきのの目立つビルに、彼女がモデルになったお店の広告看板が掲げられていた。 お

    • そこがお花畑ではないのを知っている

      あたし、決めたわ。 今夜は親子丼を拵えるって。 道行く彼女らも夕暮れ時、ヒールの音を響かせて家路に向かう。 そうして部屋で彼の帰りを待つのかしら。 エプロンをして、キッチンに立って。 とりあえず抱き合うまでの時間を逆算して彼女らも心の準備を決める。 そこがお花畑ではないのを知っている。 ユーミンのCDだけは忘れない。 むかし知り合ったばかりの頃を時々思い出す。 いろんなことが変わったとあらためて考える。 そのひとつは、彼の語彙が少し増えたこと。 かなしみは平行線で、倖せか

      • レコードで音楽が聴きたい夜

        気付の一杯のごとく、昼間からビールを呑んで本を広げる。 これでもう車の運転は出来ない。すなわち自由に遠出も出来なくなったという事である。 そのようにして自らをじわじわと縛り、中る当てもない賭け事にも興ずる。 特段これといって目的もなければ、ゆっくりとその酒をあじわい、気まぐれに録画してあった映画なんかも流してみる。 逃げれば逃げるほど、それは追いかけてくるから。 あやまらなければならない事、たくさんある。 あの子にも自分にも。 あの人にもこの人にも。 チョコレートの中毒だ

        • わたしたちはみな、病気なのだから

          ペニスのいちばん先端部分を、舌の先でもてあそばれているような感覚で僕は彼女と向き合っていた。 アルコールのせいではない。 彼女との会話はまるで性行為そのものだった。 そこには台本も段取りもなく、すべてはLIVEだった。 どこにどう転がっていくのか判らない会話。 拡がったり、フェイドアウトしていったりの繰り返しで時間は過ぎていった。 ある話題には満開の桜花が咲き、また違ったやりとりは深い沼の中に沈んでいった。 沈んでいった可哀そうなコンテンツは人知れず、暗い森の中で人知れず、人

        「わたし走り方少し変だったんだよね」と彼女がわらった。

          気まぐれじゃなかったんだね

          気まぐれだったのさ。 すすきのにはもう行けない。若い人たちばかりだから。 僕がもう少し若い頃、路上で喧嘩もしたっけな。 最後は尻尾巻いて逃げたっけ。 地下鉄に乗って帰った。無賃乗車をしようとしたけどバレて怒られた。 駅員さんに。 血だらけのTシャツを着て翌日、あいつらを探し回った。 探し疲れてローソンに入ったら、店員の青年が訝しげに僕を見た。 ああ、昭和の時代さ。 ビルの地下にある店には、むかし自衛隊で働いていた女がいた。 自衛隊の中で具体的に何をしていたのか判らないが、

          気まぐれじゃなかったんだね

          小さなブルー。

          ロックの「ク」。2009年に忌野さんは亡くなった。その翌年2010年。パーカーさんが亡くなり、ロックの「ロク」、2006年にブラウンさんは亡くなっている。 ブラウンさんはクリスマスの日に。チャプリンさんもクリスマスの日。その朝に。 ブラウンさんが亡くなった翌年、すぐに山下さんは自身の番組で追悼のプログラムを組んだ。これがよかった。 エンドレスでブラウンさんの曲を流したのだ。それもたしか記憶をたどれば2週にわたって。 この時の放送にはずいぶんと毀誉褒貶があったようだ。 みんな同

          小さなブルー。

          君は君の言葉で語れ

          当世風の名前をもつヤングマンが、当世風の言葉を用いてうたう歌はひどくリズミカルで、当世風云い回しのオンパレードだ。 ほとほと嫌気がさして表に出れば、これまたカラフルな世界が煌めいて俺は立ち眩み。 他の誰とも似ていない何かを模索するのではなく、他の誰かと類似する何かに依存することで安堵する気持ちの悪さよ。 道ゆく少年少女は祈るがごとく持つ携帯電話、で、その表情を照らし続ける。 まるで先行く未来の暗示のように。 ラジオから、偶然聞こえるなごり雪。 あの時のやさしい嘘を俺は忘れな

          君は君の言葉で語れ

          深夜の2時じゃなくてよかったよ

          午後2時に死にたくなる。 午後2時なると、死にたくなる。 午后の2時、になると、死にたくなる。 14時になれば。 雨が降ってるんなら、まだいい。 雨に打たれりゃ、まだ気も紛れる。 けれど晴天の14時はヤバい。独りで歩いてんなら、尚のこと。 深夜の2時じゃなくてよかったよ。 深夜の2時なら行動力の有無によっては、カマしてたかも。 この気持ち。年末まで引っ張るのかしら。 それともこの夏で終わるのかしら。 雨が降ってりゃまだ許される。 赦される。ゆるされる。 地下にあるアダルトシ

          深夜の2時じゃなくてよかったよ

          一瞬となる世界

          生まれてからまだ10年も経っていない、かよわき者どもが集い、 いちにちの半分をひとつの教室で一緒に過ごすという事を考えてみるに、 それは結構無理があるように私なんかは思う。 感性が強い子ほど傷つくだろうし、野生児みたいな子ほど秩序を持たないからだ。 しかしそうは云ってみてもしょうがない。 生まれてからまだ10年しか経っていないからこそ、柔軟性があり適応可能性もあると判断すれば、それはそれでひとつの意義もあるのだろう。 生まれたての個性。これでもか、という程のエナジー。そしてカ

          一瞬となる世界

          こどもがいつでも光っている

          こどもが書いた作文を読みたい。 こどもがつづった詩も読みたい。 こどもが描いた絵を眺めたい。 こどもが唄う歌はいらない。 こどもが踊る舞台もいらない。 炊きあがったばかりのご飯が食べたい。 こどもが考えるクイズに笑う。 こどもが騙す嘘に酔いたい。 こどもが笑う声を聞きたい。 こどもが握るこぶしがかわいい。 くるまがはしる危険な道路。 こどもはよおく気をつけて。 胸に抱えた絵本などを、 こどもは大事に家に持って帰る。 こどもが食べる口元を見たい。 こどもが泣いた涙のしずく。 そ

          こどもがいつでも光っている

          なんにも喋らないで僕たちは

          君はじょうずに絵が描ける。 君は自由に絵が描ける。 思ったとおりに絵が描ける。 展覧会で褒められる。大きな賞を獲れるわけじゃないが とてもじょうずに絵が描ける。 僕にはとても真似が出来ない。 僕にはとても そんな事は出来ないのさ。 君はとても頭が切れる。 とんちが利いて尊敬される。 自分が思っているよりずっと、人望が厚い君。 誰も気がつかなかった盲点を いともたやすく見つける君だ。 君はきっと大物になる。 いやもうなっているかも知れない君は。 君にはとてもかなわない僕なのさ

          なんにも喋らないで僕たちは

          言葉が意味をなさなくなった時

          言葉が意味をなさなくなった時、 言葉はいったい何になるのだろう? 言葉はただの毒になるのだろうか。 それともただの“音”として君や僕の風景になるのだろうか。 もしもそうだったら、それはそれで素敵だな。 まるで音楽みたい。 意味なんて誰にもわからないのに、 なぜだかみんなが涙を流していたりする。 笑っていたりする。 それはそれで素敵かも。 空調の壊れた映画館にひとりぼっちで 残されたように 孤独で 空腹で 幼い。 ほとんどすべての無力を集めたように それは絶望的だ。 眼だ

          言葉が意味をなさなくなった時

          天国でみる夢、それはアナザー・ワールドの入り口。おめでとう。

          英語圏の作家による異色短編集というのをいま読んでいるのだが、これがめっぽう面白い。 異色というだけあって、その計り知れない発想に驚くばかりだ。 訳者は岸本佐知子と柴田元幸で、本のタイトルはコウノトリの「何とか」だか。 「迷信」だったか。 細かいことは忘れてしまったけれど、何しろとにかくヘンテコな話ばかりなのだ。 読んでいて安心する。 ガチャガチャした音楽や、不協和音で奏でるコンテンポラリー音楽が、不安よりもむしろ、なんとなく落ち着きを与えてくれるような気がするのは何故だろう

          天国でみる夢、それはアナザー・ワールドの入り口。おめでとう。

          なるべく頭で考えないで読んだ    いまだ、おしまいの地

          頭で考えて言葉をひねり出すよりも、身体でやる方がいい。 上になったり下になったりすること。 運動は頭でやって身体は何も考えず、手紙は身体でやって頭は何も考えないこと。 何も考えない、ということはすなわち「考えつくす」必要があるというわけだ。 まるでプラモデルを作るようにね。 自然と手が動きますように。 僕は他人を不幸にしているような気がしてならない。 生きているだけで誰かを傷つけている。そんな雰囲気を纏う。 勿論好きこのんでそんな風に生きているわけではない。 しくじった心持

          なるべく頭で考えないで読んだ    いまだ、おしまいの地

          あなたの云う、莫迦者が夜を過ごしています こんな夜を。  詩のこころを読む

          時々、聴きたくなる声の人がある。 今は便利な世の中で、それを聴こうと思えば、そう望めば、手が届く時代である。 ありがたいことだ。 いろんなツールを使って。人々は。 行間を読むという事はすなわち、明確な正解はそこにはなく、 基本的に読む側の自由である。 異国の空気を感じたり、何かしらのヒントを得たり、地上から少し浮いた場所で夢見ることも出来るだろう。 おいしい水があれば、人はそこにいきたい。 自分は行きたい。 少なくとも自分は。 そこで罪を犯すだろうか? いつものように?

          あなたの云う、莫迦者が夜を過ごしています こんな夜を。  詩のこころを読む

            ブラック・ジャック(12)

          11歳から12歳の頃にかけて通ったそろばん塾は私にいろんなものを与えてくれた。 算数への取り組み方。計算の仕方。指先を使うことによる何かしらの美徳。暗算。応用する力。読解力。 そして少年チャンピオン。 塾はボロい一軒家を改造したような建物で、私が子供だった当時から見てもそれは古い建物だった。 塾に早めに到着すると教室に入るまでの時間、廊下みたいなところでみなそれぞれ、本棚にある少年少女用の週刊漫画雑誌を手に取っていた。 当時、少年チャンピオンは男子にとても人気があった。 自分

            ブラック・ジャック(12)