『ドライブ・マイ・カー』、運転、家父長制

やっと『ドライブ・マイ・カー』を観てきた。運転が問題ある家庭から娘が解放されるための手段(象徴ではなく)になるという設定が、ゆざきさかおみ作のマンガ『作りたい女とたべたい女』に共通しているなと思った。

『トウキョウ・ソナタ』にも中産家庭のお母さんが車を運転するのに合わせて音楽が流れ出すという箇所があったのが記憶に残っているんだけどあれはたぶん家庭からの解放の象徴であって手段ではなかった。

タイザン5作の『タコピーの原罪』含め最近の作品が問題にしているのは『トウキョウ・ソナタ』と比べてもうちょっと(『トウキョウ・ソナタ』は父親がエリート・サラリーマンという設定なので厳密には「かなり」だろうが)生存ラインぎりぎりという感じの人たちで、従って自動車の意味合いも変化するということだろう。

『ドライブ・マイ・カー』では渡利にとっての運転は生存の手段であるが、演劇に関わる俳優たちにとって運転(というか交通事故)は心身の不調を示すバロメーターになっていたりして、同じ作品内でも運転者の社会的なポジションによって運転の意味合いが変わっている。

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