『持続可能な魂の利用』

 笙野頼子の『水晶内制度』を連想させる設定だが、切り口はもっと時事的でむしろ『キム・ジヨン』に近い。基本的なスタンスとしては日本と英語圏とふたつの世界を往還することで得られた(特にジェンダーに関する)日本社会のおかしさを言語化していくという感じか。
 この二文化間の往還というモチーフは現代とSF的な未来の往還というギミックを加えることによって増幅されるが、これによって米英が進んでおり、日本が遅れているというようなコロニアリズムがあるていど回避され(または薄められ)ているということかと思う。つまり英米系のリベラル・フェミニズムを基準にして日本社会を分析するということ自体がコロニアリズムのジェスチャーを反復してしまうというジレンマがあって、それを回避・克服するためにSF的構造が要請されたということだろう。
 最後はフィクションだからこその無責任さが爽快だった。「もう何もできないなら、このまま終わってしまうなら、最後の時間を私たちがもらいましょう」(pp. 206)。

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 と、とりあえずここまでが作品に対する感想、以下は同作の中で展開されるアイドル論に対する反応としてごく個人的なアイドル論を展開させて頂く(このトピックに関しては私は全くの「にわか」であるので本業(?)のファンの方たちと張り合う覚悟は全くない。そのような事情もあり、以下の記述では伏字を使用することをお許し願いたい)。
 『持続可能な魂の利用』のなかでxxという架空のアイドルについて(あくまでも架空の存在とはいえ、K坂の元メンバーのHY氏がモデルなのは明らかだろう)について熱く語られているのを読んだら、自分も自分の好きなアイドルについて書きたくなってきた。私も男性女性問わずアイドルにはあまり興味がないのだが、M娘の元メンバーのSR氏というのがほぼ唯一の例外でこの人は好きだ。
 松田さんは日本のアイドルという制度に対してはかなり批判的であり、『持続可能な魂の利用』の中では未来の少女たちによるプレゼンという形をとって、日本のアイドル制度を未熟な「おじさん」が少女を自分たちよりもさらに未熟な存在として消費するシステムだと断じている。xxはそうしたアイドル業界に異端的な存在として現れる。

 アイドルじゃないような歌を歌い、アイドルじゃないようなダンスを踊り、アイドルじゃないような衣装を着た、笑わないアイドルは、笑わないxxは、彼女たちは、かっこよかった。(pp. 32)

 私も日本のアイドルという見解については松田さんと概ね同じような、否定的な見解を抱いていた(し、今でもそれは基本的に変わらない)。だからそのシステムに反抗するような存在を見つけた時にそれをかっこいいと思ったのだが、その対象はHY氏よりもむしろ、SR氏の方だった。(決してHY氏についてネガティブな見解を持っていたというわけではないので、そこは誤解しないで頂きたい。あくまでも個人的なツボの問題だと思っている。)
 アイドルグループに所属していた時代のSR氏はともかくダンスの上手さで知られる存在で、当時すでにフォーメーションダンスのクオリティの高さを売りにするようになっていたM娘のなかでも、素人目に見ても明らかなくらいに動きにキレがあった。
 HY氏のようにパフォーマンスの内容に反抗的なメッセージが込められているわけではない。むしろSR氏の姿勢は与えられた、少なくとも表面的に解釈する限りでは、振付という型に忠実に従うという極めて保守的なものだった。しかし、そのダンスのキレが標準的なアイドルのそれでないため、SR氏はどうしても目立ってしまう。まるで自分はあなたたちが思っているのような「アイドル」ではないのだと中指を突き立てているようでさえあった、しかも彼女に相手に対する悪意や敵意、相手を威嚇しているという自覚はおそらくなく、ただベストなパフォーマンスを目指しているだけなのだ。与えられた才能と努力によってアイドルという制度を内側から突き破っていくかのようだった。

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