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『君たちはどう生きるか』(2023)における男性性批判と継承の問題、そしてモダニティ

宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』(2023)を観た。頭の体操になるという点では非常によい作品だったと思う。以下、ネタバレ的な情報を含みます。未鑑賞の方は作品を観てからお読みいただければ、とお願いする次第です。

 「男性」とは何かと問うことは、継承の問題と密接な関係がある。生物学的な仕方で自らの似姿を生み出すことができないというのは、生物学的男性を定義する上での必要条件だからだ。つい最近まで、歴史に名を残す人物の大半が男性だったという事実が、自ら子を産むことのできない男性という性の執念に発しているのかは確かめるべくもないにせよ、自らの遺産を子孫に継承するという問題に関して、その子が本当に自分の子であるのかを経験的に実証する術を持たないという事情が、男性に特有の不安を抱かせるものであることは想像に難くない。
 この『君たちはどう生きるか』において、大人の男性は押し並べて否定的に描かれている。母の死(行方不明?)後間もなくその妹を妊娠させる主人公の父は日本の軍国主義から富を生み出す兵器商人であり、到底主人公の倫理的なロールモデルとはなり得ず、主人公の転校先の小学校に自動車で乗り付けたり、多額の献金をして校長を思い通りにさせようとするなど常識的に考えても破綻している。この父の存在は、宮崎駿のジェンダー観と歴史認識の結びつきを示唆していて興味深い。侵略戦争とそれがもたらした敗戦、21世紀の現在まで続く安全保障における自己決定権の喪失は、宮崎駿のような戦後世代にとって模範となる男性像の喪失として受け止められた、ということなのだろう。* それはつまり男性性の危機であると同時に、特に男性にとっては、若い世代が前の世代を見習うことができないという、継承の危機でもあった。
 作中において現実の父の代理となる働きをするかに見えるアオサギも、正体が露わになれば、不格好でせこいハゲオヤジであって、成熟した男性性なるものはこの作品内において徹底的にコケにされている。そのような文脈でみると、アオサギのくちばしにできた「穴」に木片を突っ込んで塞ごうと2人が奮闘する場面は、たぶん人を選ぶがかなり笑える場面ではある。そのかわりに主人公の助力者として活躍するのは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサ然としたキリコや、アリスのようなドレスをまとった少女だったりする。

 本作は、主人公が「下の世界」つまり無意識の世界へと潜行していく男子版『不思議の国のアリス』とでもいえそうな内容であり、あからさまにフロイト的なのだが、しかしよく見てみるとフロイト的なエディプス・コンプレックスを乗り越える話にはなっておらず、むしろそれに逆行するような内容になっている。
 男の子は母親を欲望するが、母親にはすでに父という打倒不可能なライバルがいることを悟り、母に似た別の人に欲望が向かう先をずらしていくというのがフロイトの説明だが、本作では主人公が「母さんにそっくり」な人に出会った直後、その人が父の子を妊娠していることが告げられる。この時点で、主人公はこの女性に恋している(主人公が駅前で彼女と初体面した時の、違和感をおぼえずにはいられないほどベタベタなティルティングは多分そういうことがいいたいのだろう)。主人公の自傷行為は田舎の小学校への適応の失敗故でなく、「父さんの好きな人」を自分が欲望してしまったことを自罰しているのだと考えた方が説得的だろう。
 この自己去勢の行為は少年の頭蓋に生々しい裂け目を残すが、「下の世界」が基本的には少年の無意識であるとするなら、女性であるキリコさんの頭に同じような「裂け目」が存在するのも驚くには当たらない(フロイトによれば男の子は女性を「去勢された男性」として理解するのだそうだ)。もちろん、フロイト的に考えるのであれば、主人公は「正しく」エディプス的規範を内面化し、母以外の女性(母の妹だからぎりぎりアウトか)を欲望しているのだが、父がその女性を新しい妻にしてしまったことで問題が生じている。
 従って主人公が潜行した無意識の世界で行わなければならないのは、母に対する固着を脱して他人を好きになることでなく、好きになった他人を母として認めるという巻き戻し的作業となる。この作業は大詰めの決定的な台詞「ナツコ母さん」によって一応は完了したものとみなされるが、そこに至るまでに主人公は自らの本当の母と、ほぼ同年代の少年少女どうしとして出会い、(これも多分、だが)恋に落ちなければならない。物語はエディプス・コンプレックスを克服するのではなく、その出発点に戻ったところで終わっていることになる。

 映画のもうひとつのクライマックスといえるのは主人公と大叔父との対話だ。**    ここで卑近な例を出して恐縮だが、私はこの場面についても、これまでも述べてきたように、主人公を宮崎駿の分身として解釈し、戦前の遺産を継承することのできない戦後知識人の苦境を描いていると解釈していた。だが、宮崎駿周辺の人間関係についてもう少し予備知識のある私の同居人は、私の翌日にこの映画を観て、この場面の大叔父を宮崎駿の分身とみて、若い世代へのメッセージなのだと伝記的に解釈したそうである。たぶん両方なのだろう。宮崎駿はこの場面において大叔父であると同時に主人公なのだ。
 これはよくある「どっちの解釈も成り立つ」という水準の話ではない。宮崎駿は同時に大叔父であり、主人公である、という現実の世界ではあり得ない事態を、しかし夢の世界では可能なこととして受け止める時にはじめて、この場面を十全に理解できるようになるということだ。
    強引に言語化するなら、自分はこれこれのような事情があって、自分よりも前の世代からの遺産を継承させることはできず、でもその代わりにというかだからこそ好き勝手にやってきたのだ、そのことの苦しさと栄光をどうかわかって許してほしい。だが同時に自分が作ったものは後の世代に継承したいとも思うのだが、それが自分の勝手であり、不可能であることもよく分かっている、だから、お前たちも私がしたのと同じように好き勝手にやるがいい、というような錯綜した感情がこの場面に折り畳まれている。

 ここまで敗戦・戦後という日本特有の文脈に依拠して話を進めてきたが、この継承の問題は近代という時代のよりジェネラルな問題として受け止めることも可能だろう。***  宮崎駿は気質としてはおそらくロマン主義的なところのある人で、親世代の営みを子どもの世代が受け継ぐことで連綿と続いていく生、への強い憧れがあった人なのだと思う。そのような欲求自体は非難される謂れのないもので、というか後の世代に今の自分たちが持っている最良のものを渡してやりたいと思うのは自然な情であるに違いないのだが、近代とは絶えざる自己更新の時代であり、前近代の社会では当たり前であった親から子への継承ということが難しくなった時代でもある。そのようなジレンマを受け止めて「俺たちはどう生きたか」を見せつけつつ、『君たちはどう生きるか』を問うた作品だった。

*これは宮崎駿に限らず、小津安二郎の『秋刀魚の味』も多分そうだし、日本のアニメ映画においては押井守の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』や山賀博之の『王立宇宙軍 オネアミスの翼』などにも読み取れる定番の主題である。

**大叔父が積み上げている、悪意を持ったりすることがある「石」から放射性廃棄物を連想しないことは難しい。大叔父の顔がどことなくアインシュタインと似ているように見えるのも、たぶん気のせいではないだろう。主人公は大叔父の積み木セットを相続することには失敗するが、通常世界に帰った時、彼のポケットにはキリコさんと共に小さな石の破片が入っており、原子力を否定したとみせて、完全否定はしないというちょっとずるい逃げ方をしている。

***本作の主人公の名前は「眞人」というが、それは作中でも言及があるように「真実の人」であると同時に「マイワシ」とか「マガモ」とかいう時の「マ」と同じで彼が標準的な存在であること、つまり多くの人に共通するジェネラルな問題に直面する存在であることを示唆しているのかもしれない。

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