父は帰らず母太る(現代マンガにおける家族像について)

『オレが私になるまで』は父親が実質的にいない家庭で、父性と母性(この言い方じたい河合隼雄かよとツッコミ受けそうだが)の両方を担わなくてはいけなくなったストレスのために母親が太ってしまうという展開だったけど、おなじような設定は『僕のヒーロー・アカデミア』にもあった。直接の影響関係があるのかはわからないけど、現代日本ではそのような母子像が一定以上の説得力を持ってしまうということなのかな。

フェリーニとか宮崎駿(時期を限定する必要ある?)だとふくよかな女性身体を母の逞しさに結び付けるという連想が根強いとおもうんだけど、最近の作品だと同じような身体が精神的なストレスや不規則なワークシフトに結び付けられてスティグマとして認識されるということになる。この違いはフェリーニや宮崎駿の世界に働いていたジェンダー的抑圧と現在の「ポスト」フェミニズム的抑圧の両方を明らかにしている。つまり前者は女性の苦労を「母の逞しさ」として美化し、後者は男並みに働ける若くて美しい身体から落伍した者をスティグマ化する。

あと父親の不在について。フォーディズム(+世帯ベースの福祉国家モデル)社会における「父の不在」とポストフォーディズムのそれは表面的には連続していたとしても、たぶん根本的に異なる。前者だと物理的な不在なんだけど、後者の場合、生身のお父さんがむしろ積極的に子育てに関わろうとする場合もあって(たとえばケン・ローチの『家族を想うとき』)、ただ父親世代の生き方が子どもたちの参考にならないということが社会構造のなかに組み込まれている。『トウキョウ・ソナタ』で香川照之が演じていたお父さんはこの2つのモデルの中間あたりに位置しているのではないだろうか。

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