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無理な抱負は自分を苦しめるだけだろうに

 今年も新年度がやってきた。本当に新年度(或いは年度末)というものは厄介であり、社会人になってから幾度この悪党に頭を悩まさせられたか分からない。
 一年間何とか誤魔化して、皺を寄せて寄せて生きてきた罪を償えと言わんばかりの新年度は、私に鋭利な牙を突き立てる。一生懸命生きてきたつもりなのに、何故こうも反抗してくるのか。確かに不真面目で不埒な日もあったかもしれないが、あんまりじゃないかと思う。
 しかし、始まったら始まったで悪い事ばかりではない。嫌な上司はどこかに飛んでいったし、フレッシュな若者と接する機会も増えた。のど元過ぎればなんとやら、年度末に刻まれた眉間の深い皺も、なんだか消えてきた気がする。いつまでも過去の敵に囚われ、感想戦を続けるのも忍びない。
 だから、今回は前向きに新年度の抱負でも考えようと思う。一月に抱負を決めることができなかったので、良い機会だ。

 まず、気分を一新したばかりなのに「負」なんて文字を使いたくない。今年の抱負は、抱負を抱勝と呼ぶことから始めよう。正に「やる前に負けること考える馬鹿いるかよ」だ。勝ちを抱えつづけて一年を走り抜け、年度末にタッチダウンする。それが一番いい。私は私の花園を謳歌したい。
 いやまあ、本当は分かっている。抱負の「負」は「負ける」ではなく、「負う」から来ていることくらいは。ただ、目標のことを「抱えて負う」ものだと表現することに違和感がある。義務感や努力を強いていては、達成できるものも達成できない。「負う」ものだなんて、本当は嫌なのに仕方なく背負うものみたいじゃないか。抱負とはもっとこう、それぞれの夢や希望が詰まった一年生のランドセルみたいなものであるべきであり、私はそういうものを担ぎたい。だから、決して枷になってはいけない。

 少しだけ脱線してしまったが、そろそろ抱勝を考えねばならない。このままくねくねと話を逸らしていては、いつの間にか三月を迎えてしまうだろう。私の抱勝は、

 と、ここまで書いたところで私の部屋からキーボードを叩く音が消えた。どれだけ上昇志向の無い人生なのだろう。事なかれ主義は行き過ぎると人生すら凪いだものを求めるのか。今の生活に不満はありつつも、変える程ではないと考えてしまっている。
 人生という長い期間での目標は立てることができる。しかし、ここ一年で達成できるものと限定すると、どうしても立てることができない。抱勝は実現性と具体性を持つ必要があるので、段階的なステップを考慮しなければならなく、それが難しい。段階的なステップを考えるという一番最初のステップで踏み外している。初回の授業で挫折した数Bを思い出した。
 困った。義務的にひねり出そうとしている私の抱勝は既に抱負になりつつある。これが抱負の報復か。

 よし、これ以上考えるのはやめよう。まあ、楽観的に生きていければそれでいいのかもしれない。難しく考えずとも、生活を送っているうちに何か見つかるはずだ。別に一年という期限を設けなくとも、一日で達成できるものでも、何年もかかるものでも、全て抱勝としよう。そうしたらどんどん抱勝が増えていき、豊富に取り揃えられるようになるかもしれない。そうしたら、私みたいに抱勝に困った人に売る店を開こう。生きることに困った人たちに目標を売ってあげるうちに店は拡大し、チェーン展開するようになり、やがて世界進出もするだろう。そのうちに国も私の抱勝屋を無視できなくなるようになって、評価し、ついには紫綬褒章がもらえるかもしれない。
 なんだ、私はとんでもなく大きな抱勝を持っているではないか。よかったよかった。悲観的になるよりも、一度全てを手放して放縦に考えることだって時には必要だった。まずは私の初めての商品となった、「抱負を掲げる」という抱負を誰かに売ろうと思う。

 

 

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