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母からの思いがけない贈り物

 今年の1月、母が亡くなった。
 去年、入院した直後から緊急事態宣言が出て、病院には何度も打診したのだけど、結局面会はほとんどダメ。宣言解除の合間には何とか対面できたけれど、トータルで7、8回も会えたかしら…。
 最期も、そばにはいてあげられなかった。

 母は、衣裳持ちだった。
 いつも「私には、今着られる良い服がちっともないのよ」と言っていたけれど、そんなことない。私の住んでいる所に、父と一緒に引っ越してきたときも、母の衣類はずいぶん多かった。その数ヶ月後に父が(思いがけない病気の急変で)亡くなった後も、相当悲しんで落ち込んではいたけれど、時々実家の片付けに行く私に「あの服を持ってきて、このワンピースを持ってきて」と頼んでいた。
 母も、次第に弱って、ピッタリしたストッキングの上げ下ろしも、ガードルをはくことも自分では出来ないようになっていて、だから(ワンピースとか、一体どんな時に着たいんだろうなあ)と思わないではなかったけれど、「着れないでしょ」「いらないでしょ」とこちらが言ってしまうと母が切ないだろうという気がして、言われるままに運んできていた。

 そして、母は小柄な人だった。若い時はSサイズ、その後もほぼMサイズ。
 私はどちらかというと父に似て骨格が大柄で、LサイズかLLサイズでなければ入らない。附言すれば、父は、背は高かったけれどスラリとした方だったので、もっぱらMで、一番太っていた時でもLで充分だった。

 そんな訳で、母がいなくなってしまって、一番困ったのは、洋服の整理だった。
 ブラウスなんか、タグも取っていないものが何枚もあった。多分実家にいた頃、買ってはみたものの、体調が良くなくて何処にも着ていかなかったのだろう。
 もったいないな、こんなの着れれば嬉しいのに……と思いながらも、羽織れば胸がパツパツでボタンが嵌められなかったり、袖が短すぎたりするのだから仕方がない。ネットで売る選択肢もあったのだろうが、仕事やら母の法事やらで忙しい合間に売るというのも手間がかかる。それに、ブランド物という訳でもない。結局、毎週利用している宅配サービスが、衣類の回収と海外への寄附も行っているというので、畳んで袋詰めにして何回も持っていってもらった。

 トップスの整理がだいたい出来たところで、クローゼットにかかっているジャケット類も何とかしなければならない。
 (でも、ジャケットなんてしっかりした生地のものは、そもそも無理でしょ。着なくてもわかる)と思っていた。伸縮性のある薄手のニットは何枚か、まあまあ何とかなったので、着させてもらうことにしたけれど……。

 素敵なツイードのジャケットなんかが残っている。
 淡いブルーと白の混じり糸。ちょっとシャネルスーツみたい。上品な感じで、いいなぁ。母が着ていた記憶はほとんどないし、くたびれてもいない。こういう上着が着れたらなぁ。
 と、畳む前にちょっとだけ袖を通してみようとして、気がついた。
 着られる。

 え?
 まさか?

 袖も短すぎないし、前ボタンもきちんとかけられる。鏡を見ると、ちゃんとしっくりきている。
 びっくりした。こんなことってある? まさか私が買った? と思って見直したけれど、どう考えても、私なら選ばないデザインだ。

 よくよく思い返すと、そういえば母は、10年前に心臓の手術をする少し以前(それまでも何回も入退院は繰り返していた。病気がちな人だった)、いっとき、ずいぶん太っていた。父も心配して「体に悪いから、ちょっとやせたら?」と言っていたのだが、母に全然その気はなく、太っていた方が、これまでの人生の中では最も健康な方なのだと思っていたようだ。サイズもちょくちょくLサイズを買うようになり、しかし袖丈や着丈が長すぎるので出入りのクリーニング店に頼んで、その知り合いの洋裁店に丈詰めをしてもらっていた。でも、だんだん直しに出すのが大儀になって、何枚かがそのままになっていたんだろう……。

 そのほかに、スモーキーピンクのベロア風のとか、ラベンダー色の厚地のとか、フォーマルにも着られる黒のジャケットも。何枚か、いいな、と思うものが、私にも着られるものだった。
 そして、ものすごく〝助かった〟と思った。なぜなら、母が亡くなった直後に私は少しだけ職場でポジションが上がったのだが、それまで現場の仕事ばかりしていたので、カジュアルでクタクタに着古した衣類しか持っていなかったからだ。
 買い足さなきゃならない……フトコロが痛いな、と気が重かったので、形のしっかりしたジャケットが手に入ったのは、本当に、心から嬉しかった。

ジャケット

 職場での昇進については、もちろん母に伝えたかった。母は、その事を知らないまま世を去った。母に直接会えるのだったら、ちょっと、こそっと耳打ちさえすれば、母はそれだけで、充分に心から喜んでくれたことだろう。
 しかしその頃は、看護師さんとさえ面談することはできず、母の状態を訊くには、いちいち電話を通さねばならなかった。コロナの緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置の期間は、見舞客は全員〈出禁〉状態だったからだ。
 昇進の見込みなんて電話で第三者に話すことではないし、仮にどうしてもと看護師さんに伝言してもらったとしても、もし万一実現しなかったら、母だって病院で気まずい思いをするだろう。嬉しくって誰かに話して、あげくに、「なぁんだ親バカなんだね、ボケちゃってるんだね」なんて思われてしまったら申し訳なさすぎる。だから、いつかちゃんと話せる時が来るまでと、ずっと我慢していた。実際、母とたまに顔を合わせられた時だって、せいぜい5分か10分の分刻みで、しかもガラス越し。勝手に戸を開けたりしないように、担当の看護師がいつもそれとなく横目で見ていた。

 そんな状況下なので、こちらも意地になって、会えない代わりに毎週、決まった曜日と時間に病院に電話をかけて様子を聞いた。看護師さんも、この人の身内はこの曜日のこの時間にだけ電話してくるんだ、と思えば、わずらわしくても多少は納得づくで応対してくれるだろうと思ったからだ。そして折に触れ、「娘さん、また電話してきたよ」と、母に話してもくれるだろうと思った。

 そのやり方は、ある程度功を奏したらしい。母は、入院時には、軽度の認知症になっていた。普通の意味では記憶も比較的しっかりしていたし、トンチンカンな言動をすることもほとんどなかったが、短期記憶の力が弱ってきたのと、自分の欲求(主に、誰かにそばに居て欲しいという気持ち)を抑えることが苦手になり、しょっちゅう、ナースコールを鳴らすか、人を呼ぶかしていたようだ。しかし、看護師さんが「そんなことばっかりしてたら、娘さんに言うよ。また電話が来るから、その時に言っちゃうよ? いいの?」と言うと、その時には、必ずピタッと大人しくなったそうだ。母は、私が電話を毎週かけ続けていたことをわかっていて、最期まで、娘にはきちんとした母であるところを見せたいと思っていたのだ。そのことを、私は、母の訃報を受けて病院に行った際に、師長さんから聴いた。

 両親が生きていたら、きっと、何かはプレゼントしてくれただろうに。そう思っても、もう二人ともいないのだから仕方がないと諦めていた私にとって、母のジャケットは思いがけない贈り物のように感じられた。
 もし本人が目の前にいたら、「あら、やぁねえ、自分にばっかり都合のいいこと言っちゃって!」と言われるかしら。でも、そのすぐあと、「いいよいいよ、着なさい! 遠慮っこしたフリして! あら、似合うんでしょう! いいわねぇ!」と言ってくれるような気がする。思い出の母は、そんな人だった。

 そして私は今朝も出掛ける前に、母のジャケットを羽織って、母の写真にニコッと微笑みかける。「いいでしょ?」と。

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