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ソクラテス「君は、アテナイという、偉大なポリス(都市国家)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気を使って、恥ずかしくはないのか。」

ソクラテス「君は、アテナイという、偉大なポリス(都市国家)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気を使って、恥ずかしくはないのか。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

ソクラテスは更にこう続けます。

「魂ができるだけ優れたものになるよう、随分に気を遣うべきであって、それより以上に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない。」
「いくら金銭を積んでも、そこから優れた魂が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私のいずれにおいても、すべては魂の優れていることによることによるのだから。」

金銭や身体のことを、全面的に否定しているわけではありません。
いずれも「健康で文化的な最低限度の生活」を営むためには、必要不可欠であることは否定しえないからです。

しかし、どれが最も重要なものであるか、という序列に関しては、

魂>>>>>(越えられない壁)>>>>>身体>金銭

・・・だとソクラテスは言うのです。

さて当時のアテナイにはどのような社会背景があったのか、という話はさておき、私たちが生きている現代社会にのみ当てはめて考えてみたいと思います。

現代社会は言うまでもなく、資本主義に基づいて経済は廻っており、そして経済の上に立つ政治は(色々な意見はあるでしょうが、ここはひとまず無難な意見として)「最大多数の最大幸福」を旨とする功利主義に基づいて廻っております。

資本主義と功利主義は、大きな共通点があります。
それは共に「成果主義」であることです。

この世のすべては因果関係(原因と結果の法則性)で廻っております。
つまり時系列的には、まず先に「原因(=動機)」があって、その後に「結果(=成果)」があります。
成果主義とは、要するに「原因」なんてものはどうでもよく、「結果」を出せばそれで良いのです。
いくら動機が優れていたとしても、成果を挙げることができなければ、全く評価されることはないのです。

逆に不純な動機であったとしても、それがたまたま良い成果を挙げたのであれば、それで良しとするのです。
動機の善悪は問われないのです。

ここでソクラテスに話を戻しますと、ソクラテスの言う「魂を優れたものにする」云々とは、私が思うに、「成果」ではなく「動機」を重視することに他ならないのです。
たとえ成果が優れていたとしても、その動機が不純であるならば、必然的にその動機の源たる「魂」は汚れていることになるのです。

このソクラテスの主張は、ただの理想論なのでしょうか。
結局のところ人間社会というものは、どこまでも成果を出してナンボの世界なのでしょうか。

私はそこまでマクロな視点に立って大それた見解を申し上げるほど賢い人間ではないのですが、恐らくですが、ヘーゲル流に言えば、これら「成果を重視する主義」と「動機を重視する主義」との相剋があって、そこから何らかのアウフヘーベンが起こる狭間に、今の私たちはいるのではないか、と思えてならないのです。
だから私は、今までの半生はずっと成果主義の側に立っていたのですが、今は敢えて動機主義の側に立ち位置を移して、この世界の成り行きを見ていこうとしているのです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。