見出し画像

【雑記】あいみょん「生きていたんだよな」(2016)と、西宮と、ある欠落と

   2019年末に集中的に取り組んだ「消滅した動物園を巡る旅」の中で、とりわけ鮮烈な印象を残したのは兵庫県西宮市の2施設だった。「ららぽーと甲子園」と「リゾ鳴尾浜」――2003年に閉園した遊園地・動物園「甲子園阪神パーク」を語り継ぐモニュメントと剥製が、それぞれの場所に遺されている。


画像7

   リゾ鳴尾浜で、甲子園阪神パークの珍獣として人為的に生み出されたレオポンの最後のひとり、「ジョニー」の剥製と向き合った時、あいみょんの「生きていたんだよな」の歌詞が突然頭に浮かんだ。それまで積極的に聴いてきたアーティストではなかったが、連想は時々思いもよらない形で――セレンディピティとして降ってくるものだ。

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう

画像1

    ジョニーが生涯を送った甲子園阪神パークはいま、複合商業施設「ららぽーと甲子園」になっている。しかし、この「ららぽーと」には、かつて娯楽の殿堂として人々が集ってきた歴史が消えずに――英文のため、目を留める人は私を除いて見当たらなかったが――はっきりと刻印されていた。

画像2

ここにはかつて、『阪神パーク』と呼ばれる遊園地があった。第二次世界大戦や阪神大震災を乗り越え、70年以上に渡り阪神地域住人の癒しの場を供した。パークは動物園、プール、スケートリンクほか供すべきだったすべてのものによって、全年代の人を楽しませ、育み、共同体の中心的な役割を果たした。

画像3

ゾウ、キリン、サルたちを含む動物園の生きものたちは子どもらによって大いに愛され、世界に類例のないヒョウとライオンの仔は『レオポン』の名を授けられた。
その畏敬すべきけものを一目見ようと、日本中から人々が阪神パークに押し寄せた。

画像4

時代は流れ、現在「ららぽーと甲子園」がこの場所に建っている。
阪神パークを彩った多くの木々は、今日もここに立っている。
歴史と数え切れない笑顔を見守ってきた大楠は、今はららぽーとを象徴する木として新たな役目を果たしている。

画像5

クスノキはまた、西宮市の木でもある。『ららぽーと甲子園』は、近代的な姿勢とともに、地域に根差した自然を提示する、新たな施設である。

  確かに敷地内には、あまり他のショッピングモールには見られないような立派な大楠が聳えていた。

画像6

  

    旅から帰ったあと、ふとしたきっかけであいみょんの出身もまた西宮市であることを知った。


――生まれ変わったら男になってみたいとか思います。
あいみょん : 思います! そもそも、私、お母さんにずっと「男だったよ」って言われたんですよ。
――え、どういうことですか?
あいみょん : お腹にいたときは男だったのに、阪神淡路大震災でおちんちんがとれたって。小学校6年生くらいまでそういうふうに言われていて、友だちにも言いふらしていたんですけど「ウソやん」って言われて。だから、こんなに男の子っぽいのかって自分でも思っていたんですよ。
1995年は私が生まれた年です。阪神淡路大震災の2ヶ月後、兵庫県の西宮で私は生まれました。大変だったなか、お母さんが産み落としてくれた年をタイトルにしようと思いました。私が人として生まれてきた原点はお母ちゃんのおなかの中。

   あいみょんがインタビューやライブの現場でしばしば自己の原体験として口にする、「阪神淡路大震災」の影響。この震災の頃には、阪神パークには既に生きたレオポンはいない。ジョニーがこの世を去ったのは阪神大震災の10年前、1985年だ(この年は阪神タイガースが優勝し、阪神地域が大いに湧いた年でもあった)。その頃には動物園の動物に対する人々の倫理観も変わり、かつて一世を風靡した「つくられたけもの」――レオポンを再び産むことは許されないこととされるようになっていた。

画像8

  レオポンたちは死後も剥製として阪神パークに展示され続けたというが、震災はパークの在り方そのものも変えていった。

   現在の阪神電鉄甲子園駅前には、「阪神パーク住宅遊園」という一見奇妙な名前が記されたポールが建っている。阪神地域の復興の中で、甲子園阪神パークの敷地の多くは住宅展示場として利用されるようになった。動物園・遊園地としての役割は縮小され、日常の再建のための場になったパークは、やがて非日常の娯楽の殿堂から、日常という祝祭のための場――ショッピングモールへと姿を変えていった。

画像9

    人々が新しい日常を取り戻していく一方で、甲子園阪神パークの歴史や、レオポンという生きものを物語る痕跡はあまりにも少なくなっていた。いや、残っていただけ幸いだった、と言うべきか。

     ジョニーの剥製と向き合った時に脳裏に浮かんだ「生きていたんだよな」という歌は、動物園・遊園地という場の時代の徒花としての一側面とも強く結びついて、私にとって忘れられない一曲となりそうだ。

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう

サヨナラ サヨナラ


この記事が参加している募集

コンテンツ会議