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サービスエリアで父を怒鳴る娘を見て… 親孝行の思案

 先日、高速道路のサービスエリアで休憩していると、女性の怒鳴り声が聞こえてきた。 
何ごとかと振り返り見てみると、その女性の対面には60代くらいの男性と、隣には今にも泣きそうな顔で立ちつくしている、3、4歳くらいの男児がいた。

その怒鳴っている女性は30歳くらいであろうか。また怒鳴られている男性は彼女の父親で、その子は彼女の息子だと分かった。

彼女は何をそんなに怒っているのだろうかと、聞いていると、どうも自分に断りもなく、息子に玩具を買い与えたのが気に入らなかったらしい。それで玩具を店に返してくると怒っていたのである。

甘やかすのは、自分の教育方針ではないということなのだろうか。しかし、そこまで怒鳴らなくてもいいのではないかと思った。それが義理の父なら、まさしく鬼嫁だが、それは定かではない。

しかし、その子にすれば自分のために玩具を買ってくれた優しいおじいちゃんが、お母さんに怒鳴られている姿を見て、どう思ったのだろうか。きっと「お母さん!おじいちゃんをそんなに怒らないで」と内心思っていたのではないかと、その子が可哀想に思えた。

現代の家族関係は、ぼくの過ごした昭和の時代とはまるで違う。ぼくの家は祖父が一家の主であり、絶対君主であった。いつも僕はそれを肌で感じていた。

当時は一家にテレビが1台の時代である。チャンネルの権利は家長が握っている。ぼくは見たい番組があっても見られず、祖父が20時から見る水戸黄門が終わるまで、テレビの前でじっと黙って、見たくもない水戸黄門を一緒に見るのだ。

そして終わると、間髪を入れず、祖父に「チャンネルを変えてもいいですか?」と恐る恐る言う。そこで21時からのNHKのニュースを見ると言われると、あ〜ぁと、今日はテレビを見るのを諦めるのである。

ぼくは成人し、何故か嫌いだったはずの水戸黄門や時代劇が好きになり、歴史も好きになった。祖父の影響である。

今は一家に何台もテレビがある。また見逃し配信もあり、今の子供は本当に幸せである。
しかし、今の時代は当たり前のことなので、幸せなことと思っている子供は皆無だろう。豊かなことも考えものである。

さて、普通は孫には優しいのが祖父母であると思うのだが、絶対君主の祖父はとても厳しい人だった。孫にも厳しいのだから、当然、両親にも厳しかった。

祖父は晩年、胃の病気に苦しみ、痛みを和らげるために、母は毎晩祖父が寝つくまで、1時間ほどマッサージをしていた。
母がいない時や出来ない時は、兄か私が代わりにマッサージをするのだ。
子供だから10分もすると飽きてしまう。もう寝たかなと思って手を止める。すると「まだだ!」いつまでさせるのかと腹も立つのだが、ぼくは母が毎晩している姿を見ているので、祖父が寝つくまでなんとか我慢し、マッサージをやり切るのである。

その祖父からよく聞かされた話がある。

「親を蔑ろにするものは、天に唾を吐くのと同じことで、必ず自分に返ってくる。親がいなければ自分はこの世には存在しないのだから、親は自分の生命の源流である。

木に例えると親は根であり、子供は枝葉。根が傷つけば枝葉は枯れるのが道理で、逆に根に栄養を与えれば、枝葉は栄える」だから親孝行をしなさいと。

親孝行しろと一見、親にとって都合のいいことを言っているようにもとれる。しかし、何でも原点、元が大事である。

会社でも創業者の精神を社訓として大事に守って、繁盛しているところも沢山ある。

人は綺麗な花ばかりに目がいき、枝葉は見ようとはしない。ましてや形も見えない根などに到底、思いを及ぼすことはないのである。

切り花は直ぐに枯れるもの。根という元という根幹に思いを寄せることが大事なのだと思う。

サービスエリアで父を怒鳴っていた彼女も、きっと息子が成人した時、父に怒鳴った時と同じように、息子に怒鳴られる日がくると思うのだ。

子供は親の姿を見て学ぶ。親から学んだことをするのである。通り返しの道である。

また世の中には子供を虐待する『毒親』という親がいる。そのような親に対して、親孝行することなど到底出来ることではないだろう。

虐待する親は虐待している自覚がないことも多いようだ。どうしようもない。また子供は子供で自分が悪いと思い込んでしまう。親の毒が子供に回ってしまう。とても可愛いそうなことである。

よく虐待は連鎖するという。自分と同じ苦しみは子供には絶対させないと思っていても、子供に手をあげてしまい、苦しんでいる親もいる。

本人にしか分からない苦しみがあるので、軽々しいことは言えないが、その連鎖は自分の代で断ち切らなくてはいけないと思う。とても難しいことだと思うのであるが、まずは親を反面教師として、許すことが連鎖を断ち切ることにも繋がるのではないだろうか。

昨年ぼくの母は、病気で亡くなったが、父は、今年米寿を迎え、今も元気に暮らしている。しかし、緑内障で最近視力が弱り、それが気掛かりでもある。

父とは離れて暮らしているが、用事を頼まれると、自分のことは、なるべく横に置いて駆けつける。

また父のところへ行くと、庭の菜園などで収穫した野菜などを貰うことがある。しかし、その野菜の中には、明らかに傷んで食べられない物もある。視力が弱いので、傷んでいることが分からないのだ。

僕はどんな物でもいつも有難うと言って貰う。
食べられなくても、子供のことを想う親心をもらうのである。

僕はもう親から何かを貰うような歳ではない。親に与える歳であるのだが、親にとって子供は、いくつなっても子供なのである。本当に有難いことだ。

また僕には4人の娘がいるが、今のところ、みんな素直に育ち、元気なことが大変有難いことでもある。

今は核家族の家庭がとても多い世の中である。親と住んでいないから親孝行の姿を子供に映すことができない。だから、たまには子供を連れて親元に帰り、親孝行の姿を子供に映すことも大事なことである。

天理教の教えに『親への孝行は、神への孝行と受け取る』とある。


親孝行は、将来自分や子供達が幸せになるための種蒔きであると実感している。

最後まで拙い文をお読み頂きまして、有難うございました🙇

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