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命をいただく感謝を

上の写真は、昭和の時代に縁日などでよく見かけたカラフルなひよこ。

ひよこがそのような色で産まれてくるものだと本気で思っていた頃があった。

昭和から平成、令和と時代が変わり、いつからかそのカラーひよこの姿を見ることがなくなった。

現代の日本では動物愛護の観点から、ひよこに染色するなど許されることではない。しかし海外では子ども達に人気があり、今でもカラーひよこが売られている国もあるようだ。

小学生の頃、縁日でそのカラーひよこを、無理をいって親に数羽買ってもらった。
部屋で放し飼いにすると、そのカラフルなひよこ達が、ちょこちょこと家中を歩きまわり、とても可愛かった。
しかし、だんだん色が消え鶏冠が生えてきて、ひよこからニワトリとなった。今までは色で見分けられたのだが同じ姿となって、あなたは誰?と分からなくなった。飼い主として失格である。

また狭い家の中で飼うことが困難となり、DIY好きの父が、裏庭に小さな鶏小屋を建ててくれた。
そして、毎日兄と僕の二人が交代で餌をやって可愛がった。
大きくなって動きが速くなり、ひよこのような見た目の愛くるしさは、なくなってしまったが、今までと変わらない愛情を捧げていた。

そんなある日のこと。学校から帰って餌をあげに鶏小屋へ行くと、いつもと違う光景がそこにあった。
普段、遠くにいても僕の足音が分かるのか、羽根をバタバタとさせて走り廻って騒ぐのだが、その時はいつもの騒がしさが聞こえてこない。
様子がおかしいと思い、鶏小屋を覗くと、そこに居るはずのニワトリが一羽もいないのだ。
小屋一面に散乱した羽根だけが残っていた。
野良猫が入って食べられたのだと思った。

そして暫くすると父が帰ってきた。
僕はすぐに「ニワトリが一羽もいないけどお父さん、なにか知ってる?」と聞くと

「・・・」

父は何も応えず、その場を足早に去っていった。

その日の夕飯のとき、テーブルにつくと目の前にある鳥の唐揚げを見て、僕は愕然とした。
そしてすべてを悟った。

その頃の我が家は、友だちのどの家庭よりも貧しいことは、子ども心によく理解していた。

いま僕の目の前にある、まったく別のものになってしまったものが、あの可愛いがっていたニワトリに間違いないと思った。

母は神妙な顔をしていた。問いただそうとも思ったが、あえて聞かなかった。
真実を知ることが怖かったのだ。違っていてほしいと現実から目を背けた。

さすがに食べることは出来なかった。
いつも残すと怒る母も、そのときは何も言わずに黙っていた。

それからは暫くの間、好物であった鳥の唐揚げが食べられなくなった。

後日、鶏小屋を解体している父を見たとき、僕から大切なものを奪った憎っくき犯人だが、なぜか作業する父の背中はとても寂しく見えた。
父も可愛がっていた。きっと本意ではなかったのだろう。

今思うとそれも仕方のないことである。
縁日で売られていたひよこは、みんな卵を産まない雄である。雌ならもう少し長生きが出来たのかもしれない。

また天寿を全うするまで、待つという選択肢もあったのかもしれないが、我が家ではそれを待たずに食べられる運命であった。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

今までペットを飼うと碌なことがなかった。
ペットを飼うと愛着が湧いてくる。

子どもの心を育むうえでは、ペットを飼うことは大切なことだと思うのだが、うちでは飼ったことがない。

僕がこれまでペットを飼ったのは、そのひよこと、その後に飼ったセキセイインコだけである。これからも飼うことはないと思う。

そのセキセイインコの話。

小学5、6年生の頃だったと思うが、黄色いインコを親戚から一羽貰った。そのインコは風切り羽根を切っていたので飛ぶことが出来なかった。
部屋の中で離すと肩にのったりして、とても可愛いかった。

ある日のこと。窓を開けた時にインコが庭に飛び出てしまった。
その瞬間、縁の下から一匹の黒い猫が突然飛び出してきて、インコを咥えたまま走り去っていった。ほんの一瞬の出来事だった。
直ぐに外へ出て追いかけたが、インコと猫の姿は何処にもなく、絶望感だけがそこに残った。
そのあと、兄と一緒に家の近くを必死に探し廻ったが、何の痕跡も残っていかなった。

家に戻ってから開いたままの空の鳥かごが目に入った。
そのかごの主人はもう二度と戻ることはないと現実を受け止めると、突然襲った哀しい出来事に、とめどなく涙が溢れ出した。

その時の衝撃が、トラウマとなって猫は可愛いとは思うのだが、どうしても好きにはなれない。

そんな悲しい思いを二度もしたから、それからはペットを飼おうという気になれなかった。

ペットは家族と一緒である。しかし、いつかは自分よりも先に逝く。
とても悲しいことである。大袈裟かもしれないが、飼うにはその覚悟が必要だ。

僕にはその覚悟がない。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

生きとし生けるもの、生き物の命を頂いて、自らの命を繋いでいる。

食事のときは尊い命をいただく。その感謝の気持ちを表すために、いただきますと手を合わせる。食後もまた、ごちそうさまと手を合わせる。それがまだ先の命があった生き物への礼儀作法でもあるように思う。

話は変わるが、天理教が刊行する『稿本天理教教祖伝逸話篇』(教祖から直接導かれた人々が、記し語り伝えた教祖の逸話二百編)に以下のような話がある。明治時代の逸話。

「おいしいと言うて」132

仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、時々、近所の小川へ行って雑魚取りをする。そして、泥鰌、モロコ、エビなどをとって来る。そして、それを甘煮にして教祖のお目にかけると、教祖は、 その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて聞かせるように、
「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや。」
と、仰せられ、それから、お側に居る人々に、
「こうして、一番大きなものに得心さしたなら、後は皆、得心する道理やろ。」
と、仰せになり、更に又、
「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで。」
と、お教え下された。
各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これと同じように仰せられた、という。

稿本天理教教祖伝逸話篇132 「おいしいと言うて」

美味しかった。と口だけではなく、喜び、感謝の心を込めることで、その命は報われて、だんだんと人間に近づいてくる。

生まれ変わりを信じる、信じないかは別として、食べ物は粗末にしてはいけない。

現在は減少傾向にあるが、2017年度推計値で日本は1年間に約612万トンもの食料が捨てられている。これは東京ドーム5杯分とほぼ同じ量であり、日本人1人当たりお茶碗1杯分のごはんが毎日捨てられている計算になる。

実にモッタイナイことをしている国だ。


今は給食を残しても、先生に怒られることはないようだが、僕が子どもの頃は、食べ終わるまで先生がずっとそばについていた。残すことは許されなかった。

またこのような話がある。
日本もアフリカの子ども達も給食を残す。

日本の子ども達は嫌いなものがあって、食べられずに残す。

アフリカの子ども達も給食を残す。

アフリカでは給食はご馳走である。自分だけが食べてはもったいないと自分は少し食べて残し、残りはお腹を空かした小さな弟妹たちに持って帰る。

貧しくても心はとても豊かだ。
貧しいからこそ、ものの大切さを知り、また助け合って生きることの喜びを学び、豊かな心を育むことができるのかもしれない。


現代は、物質的な豊かさと心の豊かさが反比例しているように思う。

便利な世の中になって、優しさや思いやりの心までも、何処かに捨ててしまってはいないだろうか。

豊かな心だけは、いつも離さずに持ち続けたい。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


あの可愛かった、ひよことインコも今は何かに生まれ変わっているのだろうか。

先ずは猫や犬に生まれ変わっていることを願う。
そうすれば、もう誰かに食べられることなく、安心して天寿を全うできるだろう。


ー了ー

最後まで拙い長文をお読み下さり、ありがとうございました🙇


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