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いきつけの店の『いつもの』ができるようになること

「マスター、いつもの」
「承知しました」

どこかのTVドラマや映画などで見るワンシーン。

特別ではないどこにでもある風景といえば大げさですかね。見ていて違和感を感じない自分はかなり歳食ってきたのかもしれません(笑)

今日はこの「いつもの」のちょっぴり切ないお話。

未熟な自分の憧れ

学生のときはお金、心の余裕ともにありませんでした。そんな時期に憧れていたシーンがタイトルの「いつもの」。めっちゃやってみたかったんですよね、これ。

・「いつもの」って言うときどんな気分だろうか?
・大人になれた気分を味わえるのか?
・何かしらの優越感に浸れるのだろうか?
・「いつもの」っていう注文の仕方って危険じゃないか?
・意図したものが出てこなかったらどうしようか?

学生のときの自分

どうすればできるのかもわからず、忙しさに邪魔をされ、自分の心のうちにしまい込んでいましたが、ふとした拍子にひらめきました。

店の存在と自分にとっての価値

簡単だったんです、これを実現するためにやることって。お店に通えばよかった。何回も食べに行けばいい。それも同じものを。例えばかつ丼を毎回頼む。

そうすれば店員さんが覚えてくれる。「この人はカツ丼の人だって」。

そこまでなれば、席に座って「いつもの」って言ったらカツ丼が出てくるはずだって。

「いつもの」が通じる世界

たしかにこのやり方はあってました。自分でもやってみましたが、たしかにカツ丼は出てきた。しかも調子こいて、何回も何回も「いつもの」をやりにカツ丼を食べにいってました。

「いつもの」が通じる世界にいる自分に浸っていました。

大人の仲間入りができた~って。

でも私はこの「いつもの」の本質をわかっていなかった。本質をわからずに「いつもの」だけをやりたがっていたんです。

もうひとつの拠り所

本質に気づかされる日がやってきました。

それは体調があまりよくなく、でも何気なくその店で食べたくて席に座った日のこと。

「玉子丼で」。

私はあっさりしたものを食べたかったので頼みました。すると店員さんが「どうかされましたか?」と、とても心配げに顔を覗き込んできます。ここで私は「そういうことか」と気づきました。

店員さんは私がその店を懇意にしてくれている、つまり拠り所としてくれていると認識してたんですね。私はただ「いつもの」がやりたかっただけ。でも実は、私がしていた「いつもの」はお店にとってはすごい価値のある行為だったことを自覚できていませんでした。

それと同時に自分もその店を無意識に頼りにしていたことも気づきました。

いきつけの店ってそういうものなんですね。

「いつもの」をやっていたカツ丼のお店、しばらくして閉店されました。なにか自分の部屋をなくした気分でした。

また新しい「いつもの」を探しにいくか。。。

#毎日note #常連 #飲食店 #ひいきのお店 #いつもの #行きつけ

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