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自己紹介④ - 両親の共通点

前回と前々回は父と母のそれぞれについて書いたので、今回はその二人の共通点とそれが私に与えた影響=自己紹介について書いてみようと思う。やっと自己紹介かよ。
とはいえ、書いているうちに予期しないところで考察がノッて自己紹介まで行かなかったりしたらごめんね。

さて、前回上げた二人の共通点は、
・自分たちが「いい子ちゃんだった」という認識
・「好きなことをするべきだ」という価値観
・自分は自分、他人は他人
・勉強好き
・公平、ニュートラル
・感情的にならない
・大人
だった。

上二つは、関連している。
両親の面白いところは、自分たちが“まじめすぎた”と思っているところだ。
二人についての記事を読んでくれた方はわかると思うが、父は一浪した後6年も大学(院には行かず)で過ごし、バイトや応援団や寮生活に明け暮れ、後息子(私)に「あの頃一生分酒を飲んだから、もう家でまで飲もうとは思わない」と言わしめるほどのどんちゃん騒ぎな日々を過していたわけだし、母は母で親と超険悪になり夜遅く帰る日々を繰り返した後その関係のまま父と結婚して家を出ている。
別に“まじめすぎる”というほどではないと思う。
しかし本人たちが“まじめすぎる”と言っているのは、もっと本質的な部分で、「世間一般でいうところの“普通”に沿って歩きすぎた」ということらしい。
わかりやすく言えば、大きな喧嘩もしないし、勉強は卒なくこなして教師を困らせるようなこともなかったし、中学→高校→大学→就職というコースを(父は浪人・留年はしているとはいえ)普通に歩んできた、というそのこと自体を、『まじめすぎた』と言っているらしい。

こんな親は、あまりいないのではないかと思う。というか、上記のような育ち方を子どもに期待する親が多い気がする。
しかし、私の両親は、上記のような自分たちが進んできた育ち方を“まじめすぎた”と認識して、「私たちみたいにまじめすぎる生き方はしないでほしい」という思いを込めて私を育てた。なんじゃそりゃ、である。

それが、二つ目の「好きなことをすべきだ」に繋がる。「みんながしているから」や「それが普通だから」という理由で、嫌なことをしなくてもいいというのが両親の教えである。正確に言うと、好きなことをすべきと嫌なことをするなというのは微妙に違って、前者により近く、父の方は嫌なことでも多少はやってみたほうがいいという認識だが、まあ概ね一致していると思ってもらってよい。
なので、「みんなが~」「普通は~」という理由で私に何かを押し付けるようなことは一度もなかった。習い事も塾も行かせようとしなかったし、いい大学が~とか安定した就職先が~といった下らない(下らない、と思うところに両親の影響が如実に出ているわけだが)ことは全く言わなかった。義務教育も、「別に行きたくないなら休んでいいよ」という感じだった。
ちなみに私の本名も、「普通に従うのではなく新しい道を作っていけ」みたいな意味で命名されている。

しかし、そこはやはりこの両親の子なので、私はまじめに育った(育ってしまった)。
昔からマイペースではあったが、やんちゃをするわけでもなく、中卒で家を出るわけでもなく、大きな夢を描くでもなく、学校に行かなくなるでもなく、大人しくそこそこ勉強ができ、運動は苦手だったが友達とはよく遊び、高校にも大学にも普通に進学した。
なので、むしろ「新しい道を作っていけ」みたいな名前に重荷(というほど大げさなものじゃないけど)を感じていたとも言えるかもしれない。

大きな違い、というか私にとって大きかったのは、私自身が「私はなんて普通に進んでいるんだろう」という一抹の罪悪感・ネガティブな意識をそこに感じていたことだと思う。
両親が学歴を望む家に育った子どもが有名大学に進めなかったことに落ち込むように、そこまでではないにしろ、両親が「普通に生きるな」というスタンスの家に育った私は普通に大学まで進学したことに多少落ち込んでいたわけだ。
とはいえ、自己肯定感だけは人一倍強く育っていたので、そんなに落ち込んでるわけではないのだが、でも「このままではよくないよなあ」とは思っていた。

とにかく、両親の「自分たちはまじめすぎた」「だから子どもには自由に生きてほしい」という想いの影響は、とんでもなく受けている。両親に似たまじめさで、「自分らしく生きろ」という想いを受け取っていると言える。結局まじめじゃん。

そしてもう一つ大きかったのは、両親の中の「自分は自分、他人は他人」という意識だと思っている。これも上記の「世間の普通なんて関係ない」というのに繋がっているが、とにかく両親ともマイペースと言えると思う。何度も書いているが、「みんなが~」とか「普通は~」とか「世間は~」みたいなことを言っているのは聞いたことがない。
かといって親コミュニティや近所づきあいで浮くわけでもなく、やはりそこは2人とも外面がよくコミュ力も高めなので、人間関係は良好なんだけど、根がドライな感じだった。
両親がこんな感じだったので、私もその価値観を全くと言っていいほど有していない。
マジョリティがこうしている、というデータとしては持っておくかもしれないが、それが自分の行動に影響を与えることはほぼない。あるとしたら、「マジョリティがこうしているなら、私はやめよう」という場合だけだと思う。天邪鬼とも言うかもしれないが、天邪鬼ほどむきになる気もなくて、本当にみんながどうしているかというのがどうでもいい。

小学生ぐらいのときまでは「みんな○○しているのに、どうしてDaa君はしないの?」とクラスメイトや先生に言われたり、中学に入ったら学年やヒエラルキーによって謎のルールがあったりした(一年生はリュックを使い、制服を着崩してはいけないとか)が、そういうのに本当に興味がなかった。学校のルールとかも、言われるまで知らなかった。
高校に入るとさすがにそんな幼稚なことはなくなり(そこそこ偏差値の高めなところだったというのもあると思うけど)かなり生きやすくなったが、小中ぐらいまではそういった「みんなと同じがいいよね」的な風潮が理解不能だった。
これは間違いなく親の影響だといえる。普通ならそこで「みんなに合わせたほうがいいのか!」となるのかもしれないが、私の場合は、家に帰ればマイペースな親がいるので、たとえ相談しても「そんなの気にしなくていいよ。好きにしたらいいよ」と言われるだけだ。

みんなと同じということが行動規範にならないというのは、自由なようだが大変でもある。“みんな”という不特定多数に自分を委ねられないわけで、全て自分で考えて選ばなければいけないからだ。
父の紹介でも書いたが、物を買ってもらいたいときに「みんな持っているから」では何も意味がなく、なぜ必要なのかなぜ欲しいのかを自分の言葉で説明することが求められた。それを毎回するということだ。
なぜケータイが欲しいのか。なぜ高校に進みたいのか。なぜ大学に行きたいのか。「みんなしている」「それが普通」では、私の両親は納得しない。(かといって、納得しないから許さない、というような狭量な親ではないのだが、こっちとしては納得させたい)

大学進学まで“普通”に来てしまった私は、ますます「このままでは普通すぎる…」と思うようになった。そして大学三年生のとき、周りが一斉に就職活動をし始めたときに、その「大学三年に就活を始めるのが普通」という周囲への反発心と、「このままでは普通すぎる」というモヤモヤが合わさり、休学→中南米放浪という行動を引き起こした。
両親の持っている「まじめすぎるな」と「他人は他人、自分は自分」という教え(?)がこのタイミングで沸騰して、私を一段階上の「少し普通じゃない」人にさせたと思っている。

周りからは、就活しなくて不安じゃないのかとか、一人で中南米に行くなんてすごいとか、行動力があるとか決断力があるとか言われたが、それは勘違いである。というか、結果的にそう見えるだけだ。
私にとっては、このまま“普通”に流されていくことのほうがマイナスだっただけだ。
私にとっては、“みんなと同じ”に無批判で従える大多数のほうが理解不能だっただけだ。

残りの「勉強好き」「公平・ニュートラル」「感情的にならない」「大人」というのも、
精神的な成熟度というところでまとめて扱えると思う。

私の両親は、比較的頭がいいと思う。
これは、成績がいいとか学歴が高いとかではなくて、考えることが好きであるということだ。そして新しいことを学ぶのが好きということだ。
考えることが好きで新しいことを学ぶのが好きだと、偏見に支配されることは少なくなる。
視野が狭くなることや、自分の価値観を絶対視することも少なくなる。
それが、「公平・ニュートラル」な態度に繋がる。本当に賢い人というのは、ニュートラルだと思っている。もちろん自分の意見はある。価値観もある。しかしそれを絶対視せず、反対意見を否定しない。ある種冷めた・ドライな目でそれらを見ている感じ。
特に大きいなと感じているのは、性別に対する偏見が少ないことだ。
例えば、家庭内の性別による役割分担みたいなものは、私の家族にはなかった。料理は父がよくしていたし、洗濯は2人ともしていたし、掃除は2人ともあまりしなかった(!?)。
もちろん女性にしか出産はできないので、私や妹を生むときや二人が小さいときは母は仕事をせずに家にいたが(父の会社のほうが大きく収入が多かったし、その父の会社は転勤が多かったので、結果的に母は仕事に就きにくかった、というのもある)、妹が中学に上がってからは母も仕事に復帰した。
家計の管理は父がしていた。父の方が得意だからだ。それでいいと思う。得意なほうがやればいい。よく旦那が家事をしてくれないという批判を聞くが、よくわからない。旦那がしてくれなくて辛いなら、あなたもしなければいい。もちろんしない旦那(妻でもいいんだけど)もなぜしないのかよくわからないが、旦那がしないから私がしなきゃ、と思うのもよくわからない。
この両親の価値観があってか、私は性別に対する意識が低く育っているらしい(妻談)。実際、性別で相手を認識するということはあまりしない。性差に対するニュートラルな態度、というのは両親の影響も大きいと思っている。(そのせいで恋愛ごととも縁遠かったわけだが…)

それと、このニュートラルさは家族全体に対する態度にも影響していると思っていて、どういうことかというと、私の両親は家族を自分の所有物と捉えていない。当たり前だと思うかもしれないが、みなさんの家族は・みなさん自身はどうだろうか。「子どもなんだから親の言うことは聞くものだ」とか「親なんだから子どものことを気づかってよ」とか「家族なんだから正月ぐらい帰ってきてよ」とか、そういうことを言っていることはないだろうか。これらがない、というのが、ここでいう「家族を所有物と捉えない」だ。
家族は特別な関係だが、一人一人は別々の個人である。そういう意識が私の両親には通底している。と思う。
とてもドライに感じるかもしれない。そうかもしれない。でも、仲が悪いということではない。仲間意識に近いかもしれない。

まだ「感情的にならない」「大人」という点に触れていないが、既に5000字近いので、今回はここまでにしたいと思う。
また長々と読みにくい文を書いてしまったが、まぁこれは私の頭の中を整理する役割も兼ねているので、堪えていただけると幸いです。(この辺で反省しないあたりも、マイペースな血が引き継がれている。という言い訳。)

次回は、「感情的にならない」「大人」という点、そしてそこから育まれた私にとっての大人像などについて書こうかと思います。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

(4794字)

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