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理解

こんにちは。今回の記事では、今までずっと、勉強の時に考えていた、というよりは囚われていた一つの観念に関して言語化したい。むしろこの観念には今も苦しめられている。


それは「理解とは何か?どこまでが理解していると言えるのか?完璧な理解などあるのか?」という観念であり、永遠の問いだ。問題をいかなる形でも解けることが理解なのだろうか?明瞭に説明できることが理解だろうか?僕の場合、この観念は英語で特に顕著である。


僕は一応共通テストを2回受験し、両方80%以上であり、浪人期は北大二次で108/150であった(簡単な年だったが)。めちゃくちゃ英語できます!というわけではないが、平均よりはできると思われる。しかし、こと英文法や英文解釈と言われる分野に関しては全く自信がない。浪人時代は「竹岡広信の英作文が面白いほど書ける本」をひたすら周回することで、現役時代大の苦手だった英作文を得点源にまですることができた。しかし、英作文を書いているときは、全くと言っていいほど自分が書いていることがあっているのかに確証が持てなかったし、今でも英語学習をしているが、分からないという感覚がある。


英語を例にして話したが、より深く学び、より熟達するほど、「理解」というものの地平が広がる-これは理解の範疇の拡大ではなく理解の意味の狭隘化として-。より理解というものの手触りが不明瞭になっていくのだ。我々は何のために勉強、学習しているのか?これはこの「理解」と呼ばれる学習のイデアを追いかけるが故だろう。人は皆、世のものが把握可能となることを希って学習を行う。「学者」と呼ばれる人と話してみると、皆一様に腰が低く、まるで自分は阿呆であると本当に信じているようである。学部一年生の方が自信があるだろう。思えば、浪人して京都大学に進学した友人も皆謙虚であった。より学ぶほど、ある種の広さを目撃し、その広さに圧倒されてしまう。例えるならば、知るべき事象が海であるならば、自分の知識、理解は台所にぽたんと落ちる水滴一粒と同じだ。

「理解」と対峙したものたちが味わう感覚の説明は以上の通りだが、それでは「理解」そのものとは何だろうか?ある事象を、確かな形でいつでも再現可能である状態のことであるとするのか、a→a’といった一対一の写像関係をできるだけ多く持っている状態だろうか、前者であるならば、「一度問題で間違えてしまった」という状態で反証される。後者であるならば一体多対応のものが多いことで反証できそうだが、a→bでもa→cでも写像関係が成立するため反証可能とは言えない。では後者であるかと言われるとなんとなく疑問が残る。また、「理解」そのものとは何だろうか?という問いに関して二項対立的に回答を開示しているが、さらに答えがある可能性は高い。論がぐだぐだで、全く建設的ではないが、自分の心の中にある「理解」に関するモヤモヤがそこそこ言葉に出せたのではないだろうか。

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