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死なないで、のかわりに、


父が亡くなって母の食欲が0になり、日に日に痩せていくのをみて、私は料理をするようになった。

中学2年の春だった。

食べるものが出てこない。母は遺骨の前で長い時間を過ごした。母は料理が上手だった。でもそのモチベーションは父だった。


両親は自営業だったので、一緒に帰って来る。帰ったら母は夕飯前に父のお酒のおつまみをつくる。子供たちがいくらお腹を空かせていても、まず、父の晩酌。母はそれを少し摘んでひとくちビールを飲んでから、夕飯をつくる。

それがあたりまえの風景だった。私もひとくち貰いたいが小学生には渋いものばかりで待つしかなかった。でもそれでよかった。優先順位がはっきりしていて疑問の余地はなかった。


父がいなくなって、食べるものがなくなった。母に話しかけても虚ろで返事はしても、日が落ちて暗くなっても灯りもつけず動かない。しばらくしてむりに体をうごかして作ってくれたごはんは味がしなかった。

母は料理が上手だったし好きだった。母の料理は美味しいのがあたりまえで、父と私は美味しいとわざわざ言わなかった。言えばよかったのに、私たちはわざわざ言わなかった。おかあさんのごはん、美味しいの、あたりまえだよね、とふたりで言いあっていた。言ってあげたら、よかった、と今では思う。

母の料理のおかげで私は食べるのが好きだった。小中学生なんて食欲か睡眠欲。おなかいっぱい食べて寝る私は健康でまるまるとしていた。


たべるものがない。

死活問題だ。なにしろ中学生はお腹が空く。あさごはんはごはんに何かをのせてたべて、それまで好き嫌いが多くて食べられなかった給食は残さず食べられるようになった。

しばらくは親戚が夕食を作りに来てくれた。だが母は手をつけない。どんどん痩せていく母をみるのが嫌だった。そしてこのままでは父だけでなく母までもが死んでしまうかもしれない。私が料理をすればむりにでもひとくちでも食べるのでは?と思い、自分で夕食をつくることにした。

手の込んだもの。同じメニューはつくらない。何品もつくる。

これは手をつけなければ、きがひける、というようなものを毎日。

中学生ながら料理番組のレシピをプリントアウトしてファイルしていた。テストの残り時間に裏に今日のメニューをかいてみる。はるまき。ふつうの中華風の。ベーコンとチーズの洋風の。ポテトサラダの。

すこしだけ母は食べてくれた。つくる人の気持ちはわかるから、つきあいで。でもまったく食べなかった時より少しずつ元気になっていった。

家庭科実習でやる予定だったが都合で流れレシピだけもらったうどんを家で打った。ちゃんとあしで踏んだ。力が足りなくてきちんと練られていないうどんは固くて太さもばらばらだったけれど美味しかった。粉が飛び散ったのを母は見兼ねて手伝ってくれた。

こどもがわざわざ打ったうどんを母は残さず食べてくれた。


小学生の時習い事がいやだった私のために、母は毎週金曜日、グラタンを作ってくれた。がんばったご褒美。グラタンといってもベシャメルのもあればトマトソースのものハンバーグが入っているものなど、帰ってくるのがたのしみだった。

それを思い出して私もグラタンを作ってみた。バターに小麦粉を入れて練り、牛乳を少しずつ加え伸ばしていく。それ以外にも具も用意しなければならない。マカロニを茹で時間を計ってじゃがいもも一緒に茹でる。玉ねぎと鶏肉を炒める。

その正統派の作り方は中学生には難しく綺麗なベシャメルソースはできなかった。美味しかったけど、母のつくった金曜日のご褒美グラタンには程遠かった。

後日、家庭科実習で(その頃私はよほど熱心に家庭科を勉強していたのだろう)グラタンを作った。

バターを溶かしたフライパンに玉ねぎの細切りを入れて少し炒める。透明になったら小麦粉を玉ねぎに纏わせる。粉っぽくなくなったら牛乳を何度かにわけて加える。粉からよりずっと簡単にできる作り方だった。

こんなに簡単にできるの、と私は喜んだ。そのときから現在までずっとその作り方だ。


昨日ひさしぶりに玉ねぎ纏わせバージョンではなく、きちんと粉からソースを作ったので思い出して書いた。手間もときには美味しさのひとつ。もちろん簡単バージョンも美味しいが。

その頃のこと、よく考えると家庭科実習や料理本、料理番組で私は料理を勉強したが、母に教えてもらう、ということがほぼなかったのは不思議だ。気が塞がっているときは仕方ないにしても、その後も教わった記憶がない。

父が死ぬ少しまえ、ピーマンの肉詰めをつくったことがある。なぜ作ろうと思ったのか覚えていないが、そのときも母は教えてくれなかった。私のピーマンの肉詰めは、焼いた後別れて、ピーマンと肉団子になってしまった。


中2で学校が終わってすぐ家に帰って数時間かけて揚げ物をしたり煮込んだりして夕食を作る娘を、真っ暗な部屋の遺骨の前で母はどう思っていたのだろう。きっと派手なだけの料理はそんなに美味しくはなかっただろうし、食べて、というプレッシャーも凄かったはずだ。

父が亡くなって悲しむべきときなのに高カロリーなものばかり作る娘を母は少し疎ましく思っていたのかもしれない。

でも、母に食べさせる、ということが私には悲しみから立ち上がる術だった。

あの頃母が本気で死にたいと思っていただろうことは子供ごころにわかっていたが、私は母を失うのが怖かった。どうにか遺骨のまえから食卓へつかせたかった。

母のためではなくきっと自分のためだった。死なないで、のかわりに、ごはんできたよ、と声をかけていたのだと思う。




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