日常という煉獄の先:ヤマシタトモコ『ひばりの朝』感想

 ネタバレは少し含む。

 ある種の人々には自明のことではあるけれど、毎日の生活というものは煉獄以外の何者でもない。
 閉じた人間関係。 押し寄せる大量の雑事。その実変わり映えしない、ただ生きづらい毎日。
 繰り返される茶番にいつしか感情は鈍麻する。
 愛想笑いを浮かべながらも、この終わりのない刑罰にうんざりしている。
 とはいえ、自分で終わらせるほどの勇気はない。
 ふいに隕石が地球に衝突しないかしらなどと空想しながら、いつまでもだらだらと続いていく日々に、いつか終わりがやってくるのを待っている。
 明日も、明後日も、その次も、その次も。ただ死ぬことを先延ばしにしながら生きている――そういう感覚に囚われたことのない人は幸いだ。

  さて、『ひばりの朝』である。

 ここに描かれているのはまさに日常という煉獄だ。

 学校、家庭、仕事場。逃げ場のない人間関係。
水槽の中のような、濁った、閉鎖した環境。
 そんな「日常」の中ではなにか決定的なできごとなど起こったりしない。
 絶え間ない日常の中で、ドラマは起こる前に摘み取られていく。
 事件は未然に防がれる。
 心の動きは、行動として結実しない。
 穏やかな日常に好んで波風を立てる者などいないのだから。
 変えること、変わることは許されない。

 変化の許されない日常における人々の主な営みは、雑談だ。
 他愛のない会話の中で、人はいとも簡単に他者を消費する。
 手軽な話題として。
 薄汚い邪推の対象として。
 結果、誤解と曲解が積み重ねられる。
 だけれど、問題はない。会話において、理解するということは目的ではないのだ。
 ちょっとした脚色は会話を盛り上げるためのスパイスに過ぎない。
 結局の所、面白おかしく消費できさえすればいいのだから。

 無個性な羊の群れに放り込まれた毛色の変わった羊。
 ひばりはそういった意味ではうってつけの存在である。
 未熟な内面に不釣り合いな肉感的な外見を持つ少女。
 噂は、彼女の周囲でまことしやかにささやかれる。
 ささやかな悪意もあれば、ひそかな羨望もあったりする。
 その言葉が直接彼女に届くことはない。ただひそひそと、周りの人間たちのなかで蔓延していく。
 彼女の日常はひそかに人々の薄汚い無邪気な悪意で満たされる。真綿で首を絞められるように、彼女の世界は窒息していく。

 途中、唯一の理解者とも呼べる人物が出てくる。
 彼女は、 世の中に誤解と無理解が渦巻いていることを知っている。
 ひばりがただの小娘に過ぎないことを看破している。
 ひばりを取巻く噂や誤解が根拠の無いものだということを知っている。
 だけれど、救いの手をさしのべることはしない。
 なぜなら彼女はあらゆることを放棄しているから。
 この世の中の本質について正しい認識をしているがゆえに、世界に期待する ことをやめて傍観者となることを選んだのだから。

 それゆえ、この世界には何の救いもない。

 作者は日常にはびこる誤解と無理解を、鮮やかに取り出してみせる。
 ただひたすらに息苦しい――
 息継ぎすらすることができない――
 今にも窒息しそうな日常を。

 この物語の結末は曖昧だ。
 ひばりがどうなったのかはわからない。
 煉獄から抜け出せたのか、それとも抜け出そうと試みて失敗したのか。
 少なくとも、ハッピーエンドを示唆する証拠は何もない。
 抜け出した先に待ち受けているのは奈落かもしれない。

 夜が明け、朝がくる。
 その象徴的な輝かしさとは裏腹に、それはどうしようもない転落の始まりであるのかもしれない。
 だけれど、それこそが唯一この閉塞した世界にもたらされた、ささやかな救いであるように思えるのだ。


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