見出し画像

巡礼5日目〈サリキエギ~ロルカ、25.8km〉

今日私たちは、小さな乾いた町ロルカに宿を取った。気持ちの良い風が吹き込む夜、アルベルゲの2階の共有スペースのテーブルで、これを書いている。

なにかのイベントの最中なのか、外は祭りのような大変な賑わいで、町中の人が広場に集まっているようだ。

風邪っぴきの夫が早々にベッドに入ってしまったので、一人で広場の様子を見物しに出かけたが、住民たちの輪に入る気にもなれず(なにしろ足は棒のようだし!)、楽しそうに笑いながら踊る若いカップルたちをベンチに座ってただ眺めていた。

ふいに「私はもう(基本的には)誰とも恋愛をすることはないんだなあ」という気持ちになる。誰かを好きになって、ドキドキしながらデートをして、相手の一挙手一投足に舞い上がったり落ち込んだりして、女友達と終わらぬ“恋バナ”に花を咲かせた――のはもう過去のこと。なんだかプロレスのリングから降りてしまったようで胸が「すん」となるが、もうあの無闇な気持ちのアップダウンと闘わなくてよいのかと思うと、ほっとしたような気持ちにもなる。

今日は前夜のアルベルゲを出て、目標通りのこのロルカの町に着いた。足の痛みはさほどでもなく、夫とは昨日のささやかな口論による反省と気遣いの気持ちもあって、お互いに優しくなれたと思う。

途中、巨大なカメラを首に下げ、ひげを長く伸ばした日本人男性と前になったり後ろになったりしたが、言葉を交わすことはなかった。

ここ数年、以前のように屈託なくいろいろな人と言葉を交わせなくなり、ちょっと自分が気難しく、引っ込み思案になったように感じる。知らない誰かと気軽に言葉を交わして、ささいな言葉の端々から微妙な気持ちになるのも嫌だし、させるのも嫌だ。だんだん、相手の発言やしぐさから考えていることを深読みする、あるいはできるようになっている。すると、返す言葉も無邪気にはなれない。

約10年前、四国の道を歩いていたときはこんなことはなかったなあ、と思い出す。高校をドロップアウトした男の子と連れ立って同じ宿に泊まったこともあるし、宿で仲良くなったおばさんにお小遣い(1万円!)をありがたくいただいたこともある。雪の中を歩いていたら、バスの運転手さんが止まってくれて、分かれ道までただ乗りさせてもらったことも。もちろん、Tシャツにショートパンツで歩く私の姿を咎めて、通りすがりのおじさんに「きちんと杖を持って、白衣を着なさい」と怒られたりもしたけれど……。道端に座っていたおばあちゃんに、みかんを山ほどもらって、重たくて閉口したのもいい思い出だ(おばあちゃんには申し訳ないけれど、途中のお地蔵さまにひとつずつ置いていくことにした)。ああ、そういえば高知市役所の人に土地の名物をご馳走になったこともある!

あのころのすぐに誰とでも仲良くなれた私はどこに行ってしまったのだろう? 大人になるってこういうこと? だとすればなんてつまらないことだ。

……とかなんとか考えていると、その日本人男性と、なんと同じアルベルゲになってしまった。そしてやはり、とくに言葉を交わすことはないし、とくに仲良くなりたいとも思わないのである。

ああ、外の賑わいはいつまで続くのだろう。このままじゃ眠れなそうだ。

前日へ     翌日へ→

※夫の手記はハフィントンポストで連載しています。→期待は裏切られた。旅の途上の残念な食糧事情

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?