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蝦蟇が叫ぶ街4

そのころ、私はひどい口内炎に悩まされていた。飲み食いする際、口を動かすたびに、右上の犬歯が頬の裏の口内炎に干渉し、泣きたくなるような激痛に襲われた。口内炎は一週間経っても治らず、それどころかむしろ大きくなっており、顔のかたちが変わるほどだった。これ以上腫れたらcensoredである。舌の先で腫れているところをそっと舐めてみると、何やら蠢いている感じがした。だいたいもうそうなると炎症が悪化し、破裂するのは目に見えていたし、破裂したところからカエルが跳び出してくることも容易に想像できた。体長三センチほどのヒキガエルの幼生たちは、水をかけられたギズモのように、私の口内炎から生まれ、ねばねばしたスライム状の紫色の液体を全身にまといながらそのへんを自由闊達に跳びまわっていた。生まれてくるカエルのなかには咽喉の奥を目指す者もおり、私はヒキガエルの鳴き声のようなゲーッという声を涙ながらに発し、俯向き、えずいた。何匹か生きたまま飲み込んでしまったらしく、胃のなかで跳ねまわっている感触を覚えた。これが本当の胃のなかの蛙でございやす、などとキメ顔でほざいて終われるタイプの落語ではない。カエルたちが生まれているあいだ、私はカエルのように大きく口を開けていなければならず、それだけでも息苦しくて顎が疲れてくるし、口いっぱいにカエル臭さが充満して不快だった。ほとんど空想上の出来事に近い現実に長時間直面しつづけることが苦痛だった。だいいち、口のなかからカエルに生まれてこられることが、人として、人の子として、迷惑であり、迷惑であるとか、苦痛であるとか、不快であるとか、そんな当たり前の主観の表明がもはや煩わしいのである。カエルは五百匹ほど生まれ、そこでようやく打ち止めとなった。ある種のインプリンティングなのか、カエルたちは私のそばから離れようとしない。そのカエルが人語を解することは、二言三言しゃべってみてわかった。おじさんどいてくれよ。生意気なカエルが私に向かって言ってきたが、私はおじさんではないので、どいてほしいならお兄さんと呼びなさいと言った。いいからどけってんだろ。カエルが恫喝するように叫び、私の後頭部を力いっぱい突き飛ばした。すると一匹の威厳あるカエルがその行為を諌め、カエルの集団の代表者として私と交渉することになった。はじめまして、私は井上という者です。ご覧の通りカエルですが、あなたと同じ言葉を話すことができます。驚かせてしまったら申し訳ありません。決してあなたを驚かせるつもりで話しているわけではありません。どうか落ち着いて聞いてください。落ち着いてるよ。そうですか。あなたのお名前は? 南沢だ。南沢さん、ではお話しましょう。これからお話することはあなた方にとっていささかショッキングな内容になるかも知れませんが、どうか最後まで聞いてください。あなた方というのはいったい誰のことなんだ。人類のことですよ、南沢さん。あなた方すなわち人類には、地球上の支配的種族たる地位を退いていただきます。我々の五カ年計画では人類の個体数を多くとも百万以下にまで削減する方針になっております。生き残った人類は我々指導部の徹底した品質管理の下で家畜化され、個体数の増減は2%未満に抑制されます。不健康で身体が弱い人間はすぐに殺処分されます。反抗的な人間であっても健康体であれば労働力としての市場価値がありますので、従順な人間の脳を移植して再利用します。一個の従順な人間をクローニングする案もありましたが、未知のウイルスに感染した場合、全滅するリスクがあるので見送ることになりました。いずれにせよ人類家畜化計画はこの日本ですでに開始されており、農村地域での運用はきわめて順調と言えます。我々の予想通り、やはり日本人には家畜の才能があったようです。あなた方は家畜に特化した生き物であることを誇るべきです。井上さんと言ったかな。まさか本物の井のなかの蛙を拝むことになるとはね。人類を削減して家畜化するだって? そんなことができるわけがなかろう。おまえらのような下等な両生類にできるのは、ピロピロ笛のような伸縮性のある舌で蝿を捕まえることくらいだ。それだってカメレオンには遠く及ばない。おまえたちは理科の実験で解剖されるのがお似合いだ。わかったらとっとと消え失せろ。おれが洗面所の下から殺虫剤を持ってくる前にな。南沢さん、我々がただのヒキガエルでないことはさきほど身を以て体験していただいた筈ですが、どうやら理解していただけないようですね。非常に残念です。わかってるわかってる。つまりおまえたちは人類の幕引きのためにプレアデス星団の彼方からやってきたと、そう言いたいんだな? いいえ、違いますよ。我々はずっと地球にいました。もともとはふつうのヒキガエルでした。我々のような特殊な個体が生まれるようになったのは放射能汚染と温暖化の影響です。つまりは、あなた方のせいですよ、南沢さん。おれは知らん。おれは何も関係ない。何も悪くない。おれが生まれたときには原子力によるエネルギーの供給は人間生活に欠かせないものとなっていたし、アメリカやソ連による熱核兵器システムも完成していた。おれ一人が地球環境に与えた影響など無に等しい。そんな言い訳がカエルに通用すると思っているのですか。カエルだけじゃない。人間による破壊活動のせいで、山を追われ、森を追われた生き物がどれほどいることか。北極の氷は溶かされ、海はゴミに埋もれ、大気は毒で汚染され、地球上にはオゾン層の破壊に伴う紫外線と酸の雨が常に交互に降り注いでいる。あなた方は動物たちとの共生を拒み、自らつくりあげた人間のための街に逃げ込んだにもかかわらず、最終的には人間同士で殺し合っている。しかしそれは歓迎すべきことでもあります。人間が死ねば他の動物たちの食糧が増えるからです。人間が食べる筈だった食糧も増えるし、人間という食糧も増える。いいことずくめですよ。井上よ、悪いことは言わん。一族を連れて山へ帰れ。人間に逆らおうなどと考えるな。人間からの好感度を下げれば、損するのはおまえたちだぞ。南沢さん、さきほどご自分が体験されたことをもうお忘れですか。我々は一人の人間に寄生して五百匹、多いときは千匹にまで増殖します。それだけではありません。我々はガス状になってどこへでも行けますし、どんな狭いところでも一瞬で侵入することができます。皮膚は象よりも丈夫で、灼熱の砂漠から南極にいたるまでどこでも暮らせます。人間のつくった殺虫剤なんて効きませんよ。嘘だと思うなら試してみなさい。我々はヤドクガエルより一億倍強力な毒を持っています。当然、毒への耐性も強い。あなた方が考え得るいかなる攻撃も通用しません。我々が特殊なカエルであることはすでにじゅうぶんご理解いただいた筈です。あなた方は我々に支配される以外にないのですよ。その後も南沢はカエルたちによる人類征服計画の怖ろしい内容を聞かされつづけた。井上たちは蝦蟇族のなかでも小さな部類であり、もっとずっと大きな者がいるらしい。彼らの親玉である大蝦蟇は、この地球のどこかに潜伏しており、小蝦蟇が運んでくる人間の死体を餌にして少しずつ巨大化している。すでに人間の何倍もの大きさに成長しているのだという。そしてとうとう事件は起きた。ある朝、東京メトロ千代田線の乗客約三千人が日比谷駅付近で忽然と姿を消したのである。TVや新聞は大都会のバミューダ・トライアングルなどと怪現象のごとくに報じたが、それが大蝦蟇の仕業であることを、井上は誇らしげに自白した。その証拠に行方不明者リストに載っている人の名前を次々と言い当てたのだ。彼らは喰った人間の個人情報を仲間同士で共有していた。千代田線に擬態した大蝦蟇は、何も知らずに乗り込んできた約三千人の乗客を一瞬にして丸呑みにした。彼らは地下鉄の暗いトンネルのなかで強力な胃液に溶かされて消化され、跡形もなく消え失せた。このような事件は今後もつづくと井上は予言した。すでに主要メディアの中枢は蝦蟇族に支配されており、人間に化けたカエルが大衆を真相から遠ざけるために巧妙に画策していた。藤堂市長も少年Bもその家族も、すでに喰われてこの世にはいない。蝦蟇族は人間に化けることができた。それはふつうの生き物の擬態とは次元が異なり、指紋認証や網膜認証さえパスしてしまうレベルである。彼らは人間に化けるとき、まず大きく口を開けて自分自身を飲み込む。つまり、自らの口で、身体の外側を丸呑みにすることで、クラインの壺のように内と外を入れ代えるのだ。内と外の入れ代わったその禍々しいピンク色の塊は、痙攣したように激しく震え、やがて急激に形状が変化したかと思うと、人間の手足のようなものが飛び出す。しゃもじ型の先端がものの数秒で指の形に変化し、爪が伸びる。のっぺら坊の顔がボコッと出てくる。そこからニョキニョキと耳や鼻が生えてきて、柔らかい粘土のように目や口が浮かび上がり、輪郭が形成されてゆく。その変身は一見して完璧なコピーであるが、よく見ると疣の名残りが肌の表面にある。だからといってそのことで、こいつは人間に化けた蝦蟇だぞと見抜くことができる人はいない。疣のある人間などいくらでもいる。人間の顔の多くはどれもこれも歪で醜悪なので、疣々しい蝦蟇が化けるにはうってつけだと井上は言う。そうしてカエルたちは、喰った人間に自ら化けることで人喰いの事実を隠蔽した。人間蒸発に伴う社会的混乱を抑制するためである。井上は私になんでも教えてくれた。自分たちが人間に対してしていることを誇るように、こちらが訊いてもいないことまで心地よく教えてくれた。きっと侮っているのだろう。私ごときの雑魚はいつでも喰い殺せるので、いまのうちに人類征服の舞台裏を見せびらかして弄んでやろうという魂胆なのだ。井上が予告した通り、朝の満員電車に乗った客が出勤先に姿を見せずそのまま蒸発するという怪事件は多発した。それはほとんどニュースにもならず、不正確な噂と想像のみで構成されるマダム浙江省らの井戸端会議に終始した。そのため電車で通勤する者は減らなかった。彼らは自分には関係がないと信じきっていた。やがて通勤する者自体が著しく減った。みな大蝦蟇に喰われて死んだのである。もはや行方不明者が相次いで発生している現実を隠す必要もなかった。本来ならぎゅうぎゅう詰めの時間帯なのに、どれもまるで平日朝の下り電車のごとくがらんとしていた。まるで平日夜の川崎の映画館のようにがらんとしていた。慌てて乗り込んだ電車がガラガラに空いているので、間違えて下り電車に乗ってしまったかと思って飛び降りたら、やっぱり自分が乗るべき電車で、そのせいで会社に遅刻する者が続出していた。生き残った乗客にしてみれば、電車が空いていて快適なので、不満はなかった。そんな彼らもやがて喰われることになるのだが。警察に捜索願を出したところで行方不明者はすでに喰われているため見つかるわけがない。いまや都内の警察つまり警視庁の大部分、並びに警察庁の長官クラスまでカエルに汚染されており、人間に化けたカエルが桜田門の庁舎を支配していた。そのせいで治安は乱れ放題。殺人。強盗。放火。そのことがニュースになることもなかった。大手メディアはカエルによって所有され、株主も役員もみなカエルが担っていた。そのためTVで人々の失踪が取り沙汰されることは決してなく、朝から晩まで人畜無害な番組が流されつづけた。出演者は常に政治思想のチェックを受け、少しでも反ネオリベ臭い者は弾かれた。スポンサー企業もそのことを歓迎した。彼らは必ずしもカエルではなかったのだが。オリンピックもワールドカップもWBCも、大衆をコントロールするためのツールに過ぎなかった。バカどもにはちょうどよい目くらましだ。芸能事務所もカエルが所有しており、カエルの意に沿わないタレントはすぐに干された。影響力のあるユーチューバーはみなカエルたちによってチャンネル登録者数を水増しされた洗脳工作員であり、カエルの秘密に触れるような動画を流せば即バンされる仕組みになっていた。SNSへの投稿も人間に化けたカエルたちの圧力で瞬く間に矮小化され、同時多発的失踪事件にかかわる重要な情報が拡散、共有されることは決してなかった。カエルたちは選挙にも介入し、自分たちが支持する候補者を当選させ、国会を牛耳っていた。総理大臣の正体は無論カエルであり、閣僚の半分以上がカエルだった。彼らはカエルの秘書官を通じて官僚たちを手懐け、自分たちに有利な政策や法律を次々と生み出し、憲法を書き換えた。事務方のトップもカエルに喰われ、いまやカエルが省庁を動かしていた。法務省は異例のペースで死刑を執行し、国会では動物愛護法改正案、通称両生類憐れみの令が衆参両院を通過した。カエルを殺せば即刻死罪となる法律だ。裁判所の判事もカエルであり、裁判員もカエルしか選ばれない暗黙のルールなので、過去の判例を無視した死刑判決が大量に出された。農水省が強硬に推し進めているコオロギ食も、実はカエルたちの食糧を確保するための政策であり、SDGsとはなんの関係もなかった。カエルたちは人間を食べ尽くしたあとのこともきちんと考え、そのためにコオロギの供給システムを急ピッチで進めていたのだ。これを嚆矢にゴキブリやフナムシにも応用する計画である。既存の食糧供給システムを破壊すれば、増えすぎた人間をいっぺんに葬ることができる。反抗する者はカエルの餌となり、ゴキブリを喰ってでも生き延びたいと思う者だけが家畜の人生を約束されるのだ。財界のトップである経団連の会長に外資系の人間が選ばれ話題となったが、その正体がカエルであることは知られていない。外資系の蝦蟇族にはガマの油で得た巨額のオイルマネーがあり、彼らは日本企業を次々と買収していった。経団連の会長にまでのし上がった東欧の金融コングロマリットのトップであるカエル・チャペック氏は、労働者の最低賃金の引き下げを日本政府に要求した。要求が受け入れられない場合は日本への投資を直ちにすべて打ち切るという厳しい条件だった。政府は渋々要求を飲む風を装って、最低賃金を昨年比の十分の一にまで引き下げた。最初から労働市場を徹底的に破壊するつもりだったのだ。それまで糊口を凌いでいた労働者はいよいよ奴隷状態に置かれた。物価高と増税のダブルパンチで暴発した者は即座にカエルの餌となった。政府が防衛費増額という嘘の名目でむしり取った血税は、カエルたちの遊興費に消えた。国家予算の多くはそのようにして消えた。おじさんどいてくれよ。友人たちとボールで遊んでいた少年が近寄ってきて不満そうに口を尖らせ男にそう言った。小学生か中学生くらいの短髪の子供で、白のランニング・シャツを着ていた。男は失業して途方に暮れており、背広はくたくたにくたびれ、袖のボタンも欠けたり落ちたりしていた。いつも人がたくさんいる時間に公園の池の近くにやってきては何か特別なことをするわけでもなくただそこにずっと佇んで日が暮れるまでぼんやりしているだけだった。少年に声をかけられても男は夢想に耽っているかのように無反応だった。ときどき頬の裏側にできた口内炎を気にして、口をもごもごと動かすだけで、あとはただ、池の浅瀬の岩場のところにじっとしている一匹の黄土色の生き物を、ひたすらに飽きもせずに眺めていた。男がそこにボーッと突っ立っているのが邪魔で、少年はボールを拾うことができなかった。男を避けてボールを拾おうと思えば拾えないこともなかったが、憂鬱で陰気臭くていかにも不幸そうな人間がそこにそうして存在していることが目障りで仕方がなかった。とうとう少年はしびれを切らし、男の後頭部を力いっぱい突き飛ばした。どけってんだよ。男の身体はとても軽く、ハンバーガーの包装紙のように転がっていった。少年はボールを拾い、友人たちのいる方へ走っていった。よじ登ることができる遊具には小さな子供たちがたくさんあつまっており、子供を遊ばせているあいだにママ友の集団がおしゃべりをしていた。このあたりは非常に平和な街であり、殺人事件など一件も起きたことがなかった。夜は静かで、葉擦れの音や、カエルの鳴き声もせず、車が通っただけでもうるさいと感じるくらいだった。

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