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「hot spot plan report(椎名勇仁)」評

これは、2001年春に宮城県仙台市にあったwhat's art galleryで開かれた展示のために書かれたものである。
初出:不明(2001年)


世界は何によってできているのか? あるいは、世界を何によってか再現できるか? 椎名勇仁は、はじめて会ったギャラリーの片隅で「粘土でこの世界を作ることができると思っている」と言った。

世界を粘土で作ることはできない、と最初に言っておこう。世界の形を模すことはできても、世界は形だけでできているのではない。叙情を廃せば、粘土は土の塊でしかない。それで世界を作れると思うのは、早熟な数学者が数で幸福を計れると思うのと同じくらい滑稽だ。

しかし、それでも彼の真摯な眼差しから目をそらすことはできない。様々な手法でおびただしい数の作品を作り続ける彼の姿からは、もしかした世界を作ってしまうかもしれないという、危なさと希望が立ちのぼってくる。彼の手の中でこねくり回される粒子が、いつか世界の似姿を生み出すのではないかという不思議な愉しさだ。それは、彼自身も感じることであろう。自らの手から世界をつくる快楽。土をこねるのは、幼子が戯れるのと同じく本能的な快楽がある。

では、彼は幼稚園の子どもと一緒か? 彼は自分の作った粘土を火山の中に放り投げてみた。自分の手の中にあった世界の似姿を外に手放したのだ。それは遊びに飽きた子どものようにも見える。しかし、彼は退屈から投げたのではないだろう。作品に、正確に言えば、作品になろうとするものに命綱をかけて投げ出し、溶けだす岩の淵から引き戻す。「世界を粘土で作ることができる」と信じる無垢で無謀な精神そのものが、この行為によって命綱をかけられている。

太古の無の世界へ溶け崩れる寸前で引き戻された作品たちの下で、音楽とノイズのはざま、踊りとふるえのはざまにあるものが繰り広げられていた。それは、ある意味で懐かしいような、古ぼけたパフォーマンスにも思われる。しかし、それを屈託なくやってしまうところに、彼の可能性を感じるのだ。なぜなら、この世界と対峙するとき、その純真さは、「新しい」という幻想にとらわれた芸術家や批評家や企業家よりは、ずっと冷静にこの世界の大きさを正しく見ることができるだろうから。

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