見出し画像

漂白される社会:極私的読後感(10)

著者は、福島県出身で「ポスト3.11」の"フクシマ"について語り続けている社会学者。落手したのは2013年で、やはり福島県のことを"フクシマ"と読み替えて意味づけすることへの強い違和感を持って、本書を手に取った記憶がある。目次は次の通り。

はじめに
序章 「周縁的な存在」の中に見える現代社会
第一部 空間を越えて存在する「あってはならぬもの」たち
 第一章 「売春島」の花火の先にある未来
 第二章 「現代の貧困」に漂うホームレスギャル
第二部 戦後社会が作り上げた幻想の正体
 第三章 「新しい共同体」シェアハウスに巣くう商才たち
 第四章 ヤミ金が救済する「グレー」な生活保護受給者
第三部 性・ギャンブル・ドラッグに映る「周縁的な存在」
 第五章 未成年少女を現金化するスカウトマン
 第六章 違法ギャンブルに映る運命の虚構
 第七章 「純白の正義」に不可視化する脱法ドラッグの恐怖
第四部 現代社会に消えゆく「暴力の残余」
 第八章 右翼の彼が、手榴弾を投げたワケ
 第九章 新左翼・「過激派」の意外な姿
第五部 「グローバル化」のなかにある「現代日本の際」
 第十章 「偽装結婚」で加速する日本のグローバル化
 第十一章 「高校サッカー・ブラジル人留学生」の10年後
 第十二章 「中国エステのママ」の来し方、行く末
終章
 漂白される社会
おわりに

この本においては、文字通り「漂白」という言葉の現代的な意味を、極めて直截に描き出している。曰く、「性」や「ギャンブル」、「暴力」や「ドラッグ」、そして「グローバル化」と、それに取り残された人々が装う「擬制」・・・。

中心では声高に「安心・安全」、「自由」や「正義」が叫ばれ、本来人間が持っている「色」や「欲」に絡むモノは周縁に押し付け(隠蔽?)て固定化されていく仕組み、そして「漂白」という言葉にうす気味の悪いリアリティを感じ取ることができる。

福島の原発事故についての記述の中で、「信頼が無ければ、客観的な安全など存在しない」というテーゼの重大さに、改めて気づき、愕然としたことを記録しておきたい。

そして今コロナが、国、世代、職業、収入などの様々な位相で融通無碍に人々を切り裂いて断絶させている。「安全」や「経済」の名の下に互いを非難し、傷つけ合い、弱いものから死んでいく。しかも、コロナは震災のような地域限定的なものではなく、全世界同時に断絶を起こしているのだ。

そして、弱いものは「中心」での「自由」や「正義」という名前の「漂白」を避けて、より周縁に移ってゆき、隠蔽されていく。

 圧倒的に理解できない現象があった時、少なからぬ人は、「絶対悪」としてでっち上げた「理解できないもの」を過剰に批判し、過剰に感傷に浸ってみせる。理解していないにもかかわらず。「理解できないもの」を理解したつもりになり、ひたすら。
 そして、溜飲を下げれば、そんな「絶対悪」など元から存在しなかったかのように忘却し、日常へと戻り、また新たな「敵」や「悲劇」、「叩いていいもの」を探し出すことに血まなこになる。
 そうして、その裏では、本来解決されるべきとされた問題が解決されずに放置される。(p.386)

コロナに苦しんでいる今、まさに助け合うべき集団が、上の引用のような互いの無理解の為に互いに叩き合い傷つけ合って消耗してゆき、断絶を深めてゆき、ある者は凱歌を上げ、又ある者は、ひっそりと周縁に移動して、自らの身を隠していくという、かつて起こったことが繰り返されるのだと思うと、暗澹たる思いがする。

社会学、という学問領域は得てして「胡散臭い」とか「恣意的」というような世評を受けやすい。それは計量的アプローチが適用される部分が限定的であること、そして多くの書籍が情緒的で、かつ解決策の提示がなされないことに起因している。しかし、だからといって全く無意味なものではない(ノイズが多いのはあるが・・・)。

この本は、ポスト・コロナを考えるときに、社会の「キレイゴト」や「建前」の前に生まれる断絶について示唆を与えてくれる一冊であり、かつ東日本大震災による福島原発事故の振り返りには必須の一冊であることに違いない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?