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高坂正堯―戦後日本と現実主義:極私的読後感(29)

過日読了した若泉敬の評伝につられて落手。戦中から戦後を原体験として持つ人が透徹した論理を獲得すると、それは強力なペンの力を得ることを改めて認識。

特に沁みたのは、現在の日本国憲法を制定した時には想定していなかったような環境に日本は置かれてしまったなか、高坂先生は

中立論が日本の外交論議にもっとも寄与しうる点は外交における理念の重要性を強調し、それによって価値の問題を国際政治に導入したことにある(p.62)

として、中立論の意義は大いに認めておられたことだ。

しかし、冷戦構造の崩壊後に起こった軍事的な国際協調への要請と、憲法との整合性との議論が露呈したときには

不法行為が行われてすぐに腕力を使わないほうがいいかも知れない。でも幾ら説得しても応じないときにどうするのか。ほっとくのか。
ほっとくのは嫌だから口だけしゃべっている。これは偽善であり無力感に基づく無責任であります。しかも平和憲法、平和憲法と言いますけども、少なくともそれを言うなら条文を読んでほしいし、それが不戦条約以来の伝統にのっとっているということは考えてほしいし、あれが日本国憲法になったときの非常に苦しい過程を知って欲しいのであります。
それなのに一切先人の努力を無視して勝手なときだけこれを持ち出すというのは言語道断と言わなければならない。その意味で私は日本には精神的にかなり腐敗が存在するのではないかと思うのであります。
(p.306/1991年6月号「正論」)

と、ご都合主義的に「平和憲法」を”転びそうになった時の杖”代わりに使う政府や知識人を論難するのである。そして

日本では理想家風の偽善者が力を持ちすぎて、その結果少しでも責任ある行動をしようとしている人を苦しめている
(p.352)

と慨嘆される。別稿でも挙げたポパーの言う「歴史主義者」のような輩のことを、高坂先生は苦々しい思いで見ていたのだろう。

そして今も、この状況は変わらないように思う。まさに「已んぬる哉(やんぬるかな)」である。

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