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因果応報・善因善果・悪因悪果・自業自得・自業自縛

全ての事象は自分が巻き起こして、まいた種は自分で刈り取らないとならないブーメランスタイルだと実感している。
だからこそ、せっかくならポジティブなものがブーメランでかえって来てほしい。
今回の話はこのブーメランの重要性と、良いブーメランがかえって来る方法を最近までの実体験での気づきと共に3セクションでお送りしよう◎

【セクション①】


今こそ問いたいが、幼い頃の自分自身が、今の自分を見て嘲笑うのか?

つまりは自分の生き様に自信を持てているのかどうかと言う話だ。
最近ようやく思えるようになったのだが、答えはNOだ。
そんな事考えても無いで生きて来たが、紆余曲折あり、今生きてて想像以上に楽しいのだ。
こんなにも充実しているとは思えない位に楽しい。
自分が何かした訳では無いのだが、気づけば周りに気の合う友達が新たにできて今は超絶楽しく過ごさせてもらっている。
遠くに住んでる友達もできた。
もしかしたら一生会う事が無かったかもしれないけど、奇跡の連続が続いて巡り合えた。
どんな状況になろうともサポートしてくれる古くから仲いい友人も沢山いる。

友人少ないと公言してたが、気づけば結構居た。
素敵なパートナーにも巡り合い、猫や犬に囲まれてこれは真剣に最上級の幸せなのでは無いのか?
自分が今、非常に恵まれた環境に置かれて居て、最上級に幸せな場所に居ると改めて思うのだ。
別に羨ましがらせようとしている訳では無いが、自分の目から見える今の景色がまさにこれだと言う事実である。

だからこそ、幼い頃の自分に言いたい。

『大人は面倒くせー事だらけだけど、案外おもろいぞ。』

もしかしたら、他人に対する興味の無さが功を奏した気がする。
正確に言うと信用をしていないだけで、信頼関係を築いた人は全力で困った時こそ助けたいと思ってる。
自分の信念はいつでもそうだ。

親から教えられた事は幾つかあるが、最近、対人に対する教えを思い出す事が多い。
唯一教えられて無いのは、案外想像以上に他者との関係は大変なものだと言う事だ。
対人面の悩みとはそれ位に奥深いものなのだろうなと、改めて色々勉強させてもらい、しみじみと感じる事である。

人は孤独に生きる事はできない。
心理的に孤立し、精神的に孤独を感じれば、どんな世界にいようとも、その目から見える景色は絶望なのかもしれない。
だからこそ、人と人との繋がりは大切だ。
しかし、悪口・陰口・愚痴・文句・不平不満・噂話ばかりする人間の近くに居たいと思うだろうか?

その場は口元がスッキリするけど、時が経てば心が疲弊する。
尋常じゃなく体力を消耗するし、その人の事を信用できる訳が無い。

ここ数年もの間、様々な事が起き、ジェットコースターのように相変わらず時間が通り過ぎて行く。
ただ、重なる現実と言う連続にはどんどん良い事が起き続けてているのだ。
嬉しさが追い付かない位に、様々な景色を見続けている。

ネガティブ・マイナスポイントを少しずつ改善し、手放してその原因となる環境や人から距離を置くととても心が軽くなったのだ。
嫌いな人や苦手な人の近くに居る必要は無いし、その人に優しくしたり、嫌われないようにする必要はないのだ。

嫌われる勇気を持つと、不思議と気づけばいつも誰かが支えてくれて、笑い合っているのだ。
酒を飲んで、美味い飯を食べて、いつでも孤独では無いのだ。
果たして今の現状は自分の人徳がそうさせたのか?

勿論、そんな訳が無い。
心が変わって、環境を変えて、知らない間に沢山味方が居たと気付けたのだ。
自分はまだ大した事できていないから、助けてもらってばかりである。
だから色々と返していかないとならないのだ。
こんなにもらって良いのかと思う位に今、最高の環境に溢れていて、少し戸惑いすら感じる時がある。
本当に大した事してないのだが、当たり前な事をしているだけでも大げさな位に還元されて来る実感がある。

とにかく屈託なく毎日が楽しいのだ。
そりゃミスもするし、反省も多いポンコツだ。
それでも周りでサポートしてくれる人が沢山居た。
仕事の面でもプライベートでも新たな話がどんどん舞い込んで来て、色々な面で新境地を開ける予感がしている。
未来はどうなるか分からないし、過去に執着しててもやり直しは今しかできない。
だから支えてくれる人達の為にやるべき事をやれるだけやるしかないと、思っている。

良い椅子に座って下々を見下すような真似をせずに、いつでも俯瞰して中庸の心で見ていたいと心掛けて居る。
別に承認欲求なんてありゃしない。
誰も見てない事を前提として、それでも良い覚悟ができたから心が軽いのだ。

色々と実践してみてなんとなく少しずつ修正し続けて、環境の変化に対応していると、自然と対人面で変化が起きる。
人生において、人と関わらずに過ごす事は毛頭無理な話である。
だからこそ、出来事の本質を見抜く為に、理由を探すのではなく、原因を追及する事が大切だ。

大前提で喜怒哀楽の感情とは、他者に対するものだと思うのだ。
自分が出す表情は鏡を見続けていない限り見る事はできない。
だから、その全てはファッションと同じくその人そのものである。

パーソナルアイデンティティはとても大切だと感じなのだ。

感情にフォーカスを置いてみて、思う事がある。
自分の立ち位置で、自分に疑問を投げかけた事はあるだろうか?

なぜ他者に対して怒るのだろう。
なぜ他者に対して苛々するのだろう。
なぜ他者を批判して攻撃をするのだろう。
なぜ他者を否定して自分が正しいと思うのだろう。

いわゆる、アンガーマネジメントである。

感情をセルフマネジメントする事はとても大事だなと痛感して思った事がある。
自分と向き合う事を一切して来なかったなと。
全て他人のせいで、モノのせいで、環境のせいにしていた。
なにかあれば恋人が悪いだの、友人に対しても失礼があったろうし、できない自分や都合が悪い事があれば全て何かのせいにしていた。

ただ、別にそこで手に入れられるものは何も無かったのだ。
しかも、タチの悪い事に、何かのせいにして、その後どうするかなんて考えても無い。
行き当たりばったりで、むしろ仲良くしてくれて支えてくれた人達には何倍もの感謝の気持ちしかない。

セルフマネジメントを始めたのは、5年程前にさかのぼる。
知識を知恵とすべく、インプットしたものは即刻身体と精神がアウトプットできるように心がけた。
鍛錬と実践の連続でトライアルアンドエラーの繰り返しである。
心を磨く為に精神を鍛えて居たのかもしれない。

とにかく今振り返る事ができて、昔の自分を悔いる程に成長ができては居ると実感ができているので、それだけでも良いのだろう。
思い返せば、自分小さなゴミクズのようなプライドだけは立派だったのだろうと思う。
プライド全部捨てて生きてるのかと言えば、ブチギレする事もあればイライラする事もあるので、そうでは無いのかもしれない。
それでも全然怒る感情は少なくなった気はする。

その度に頭をひねって、何が原因かを常に考えたからだ。
達観した訳でも悟りを開いた訳でも無いし、別に聖人でもなんでもないからこれは『人生分かったつもり』なのかもしれない。
それでも、自分は生きやすく、心が軽いのだ。

【セクション②】


さて、ここからは対人ブランディング IN 『苦手・嫌いな人への対応編』としてお送りしよう。
意識の現実化の話、つまりは引き寄せの法則にも似ている。
時々伝える対人関係での処世術としてブラッシュアップさせた形でお伝えする。

まず、抗えない事だが、何事にも良くも悪くも毒となる人は少なからず存在する。

嫉妬とは、他人に対して疎ましくて、妬ましくて、羨ましいと思うからである。
多分、喜怒哀楽の感情は、大きく分けて4つあるが、それぞれに表裏があるのだなと感じる。
好きと嫌いは表裏一体で『嫌よ嫌よは好きのうち』って事だ。
愛おしいとは、裏を返せば憎しみにも変わる。
その大きさは比例して、愛していれば愛する程に、何かのきっかけでひっくり返る。
逆もまたしかりで、喧嘩する程仲が良いとかそんな感じだろうか。

『アンチとヘイターは、ラブとライクと同等。』

嫌いな人であれば、別に相手にしなければ良い気がするのだ。
一切の情報を入れなければ良いのだ。
それには此方の情報も渡してはならない。
双方に無関係の関係性を築き上げる必要があるのだ。

何度か言っている気がするのだが、無関係な人に対して喜怒哀楽の感情をぶつける事はさすがにしないだろう。

だからこそ無抵抗・無関心・無視の、3つの抵抗を持って自分で心がけて意識をする。
これは意識の問題である。
意識は現実化するのであれば、嫌いな人や苦手な人に対してエネルギーを飛ばす意味がどこにあるだろうか?
エネルギーを生霊と捉えても構わない。

『何かのせい』にしていると言う事は、せいにしている場所にエネルギーを飛ばしている事になるのだ。
それはそれは当の本人にとっては身体と心と精神は一つしかないから飛ばせば飛ばすだけ疲れるだろう。
その飛ばしたエネルギーはやがて自分に還元されて来る。
その時に帰って来た時の反動こそが疲れや心地よさに繋がるのだろう。

その上でネガティブ・マイナスポイントのワードをフル活用していれば、自分に還元されて来た時にどうなっているか。
『人を呪わば穴二つ』の精神で居なければならない。
答えを外に向けても、そこに答えは無いのだ。

【セクション③】


悪口・陰口・愚痴・文句・不平不満・噂話

これを『なるべく』言わないようにする。
少なくとも自分は、気を付けて言わない努力を心がけて、意識をするだけでも心が軽くなった。

勿論、自分は口が悪いので、未だに毒は吐くが、昔程では無いと自負している。
それ位気を使えるようにはなって来ているのだ。
それでも毒を吐くのは、自分自身の心を守る為に敢えて吐いている時もある。
そうしなければ、自分の都合だけ考えたデリカシーの無い人間が近づいて来るからである。

そもそも、自分の事で精一杯なのに他人の事を考えて、他人に時間を使っている暇は正直無いはずなのだ。

しかし、日本はとても平和だし、人によっては有り余る程に時間があるのだろう。
他人の為に時間を使えるなんて、なんて優しくて幸せな人なのだろうとも思う。

残念ながら、どんな言葉を他人に放っても必ず自分に還元されて来る。
遅かれ早かれ必ずだ。

無視&無関心

合わない人に対しては、これが大鉄則。
わざわざ自分にとって不利益な情報を入手しに行く必要は無い。
自分から嫌な気持ちになりに行くのは滑稽だし、時間の無駄である。

他責攻撃型な人は精神疾患を疑ってみるのも良いかもしれない。
他人への攻撃をするタイプは本当に自分と向き合わないから、自分が病気だと言う事に気づけない人も多いのだ。
自分は大丈夫だと思う前に、一度相談をしてみても良いかもしれない。
心療内科の受診は決して恥ずかしいものでも無いし、原因を突き止めるきっかけにもなる。

完璧な人間は居ないもので、虚栄心や小さなプライドを捨てると心が軽くはなる。
他人はあまり自分の事等気にしちゃ無いし、他人に対しては無責任な存在なのである。
反対に、そんな浅ましい心でばかり居れば、いつまでも頭の熱い心が休まる事も無い地獄の灼熱の炎に投げ込まれるかの如く落ち着かない状況となる気がする。

しかし、自分の都合の良い世界や情報ばかりでは無く、全く別の意見や価値観や正義感は確かに存在しているのだ。
そこに対して相手をする必要も無い。
むしろ、認めた上で自分とは違うと放っておけばいいだけの事だ。
あえて、振り向かせて言い聞かせても他者を変える事程、困難なものは無い。
無知=恐怖=嫌悪と人の感情は並列になっているので、何事も偏らずに、学び続ける事が大事なのだと思う。
知識を付けても体験を通して知恵とならなければならない。
だからこそ、失敗をしても行動し続ける事が大事なのだろう。

全ての事象は全て自分から起きる。
受け入れる覚悟が必要だろうし、覚悟があるからこそ放つ言葉に気を使えるとも思う。
他人を攻撃する必要はあるのだろうかと、思うのだ。

貧乏神は金の貧しさでは無く、心の貧しさで、心で貧乏神を育ててはいけないなと思う、今日この頃。


一度きりの人生を大いに楽しもう◎

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