ずーっと考えている
ずーっと考えていると頭がパンクしそうになるので、手記の代わりにNOTEを利用している。
手で書くことで連鎖的に繋がる思考と、そこからひらめく発想もあるが、脳内の情報を整理するのに文明の利器を選択するのは愚かではないと思う。
フリック入力や音声入力は、筆記やタイピング速度を超えた。利点は入力速度のみならず、手元にいつでもある手軽さもある。そして、情報検索の容易さが、デジタル情報化の最大のメリットだろう。
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来週の展示会を控えて、改めて私個人の「創作テーマ」について考えた。
それこそ一言で表せないほどの膨大な想いがあり、それらは複雑化し、作用し合い、シンプルな主張を見えなくさせていた。
「私の表現したいことはなんだろう」
作らずにはいられない物の中に、その答えは隠されている。
それを分解し、解読して、他者へ分かりやすく伝える行為は、苦しくもあるが嫌いじゃない。
暫定的な「ただ存ることの価値」というテーマを掲げ、表現のトライアンドエラーを繰り返しながら、ブラッシュアップを図っていくのだと思う。
そんなことを考えながら、個人の創作の歴史を振り返ってみた。
まず自己表現としての絵があり、次に商業としてのイラストがあった。工芸としてのデザインに携わり、技巧的価値に重きを置いた日本画を経て、自動筆記的でアンフォルメルな抽象画へと辿り着いた。
まるで絵画の歴史をものすごい速度で追体験したのではないかと感じた。
その速度こそが、美術教育がもたらした恩恵だと思うが、従来的価値観からの解放を促したのは「素直さ」という個人の資質であったように思う。
では、その資質はどのような環境で育まれるものなのだろうか?
一つは、「現状に満足しない」というハングリーさから生まれるように思う。
「この状態が最適解なのだろうか?」と疑うことから、既存価値観からの脱出方法を探すエネルギーが湧いてくるのではないだろうか。
私は生まれた時からずっと「これが最適解か?」を探しているように思う。
誰に言われるでもなく、納得したいのだ。
確固たる信念を持って、揺らぎなく生きたい。
それが私のハングリーだ。
残念なことに、最適解を探せば探すほど、〈真理〉というものは奥深く、私自身を納得させるものに到達できない。
「これが〈真理〉だ」と伝えたい。
〈真理〉は、唯一絶対のものであり、100%の再現性を持ち、最大公倍数であり、ここから先起こる未来の全てに作用するものだ。
それが何か分からない限り、「疑わしい可能性があるもの」を片っ端から試していく他ない。
時間は全然足りない。
多くの同志の助力が必要だ。
同志を探す。
たった一つの〈真理〉を共有したいと思える仲間を見つけ出すことが、今の私にとって最大に価値があることだ。
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アンフォルメルから、コンセプチュアルなデジタルアートへと移行した2020年、ここから更に加速化していくことで、藝術界の歴史を超えることができるのではないだろうか?
それが10年20年かかろうとも、その特異点が存在する未来が、私の生まれてきた存在意義となれたらいいと思う。
だから私は思考を止めるわけにはいかないし、そもそもそれは手放せないのだ。
何故なら思考することそのものが楽しくて仕方ないのだから。
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