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篠田知和基『世界異界神話』

☆mediopos2602  2021.12.31

本書は世界の神話・伝説・文学を渉猟する
「世界神話シリーズ」の第7巻目
これまでに動物・植物・鳥類・昆虫・魚類
そして風土についての神話学が展開されてきているが

第7巻目の本書では
「異界」の神話がテーマとなっている

異界は
死の世界である他界ではない
神の世界である常世の国でもない

この世とあの世のあわいにある
「もうひとつの世界」である

死の世界ではないから
異界を訪れて
この世へと帰還することもできる

「もうひとつの生」としての夢の世界も
また異界のひとつでもある

異界は世界各地で
さまざまな形で語られているが
死の世界を語るというのではなく
異界があえて語られているということは

異界は「この世界から隔絶したものではなく、
むしろ、それはこの世界の内部の隠れた世界、
あるいは影にある世界」(川村湊)
だともいえるからだろう

異界への旅とそこからの帰還が
語られることも多いが
それは日常世界からは隠された
見えない世界の体験が語られ
それが神話化されているのだといえる

たとえばカスタネダのシリーズで
トナールという日常的世界に対し
ナワールという日常性や理性を
遙かに超えた次元が現れる世界もまた
異界だといえるかもしれない

集合点の移動ということも示唆されるが
日常世界として固定された集合点は
いわば「この世」として現れているが
その集合点が移動することによって
現実であると思われていた世界が
別の世界として現れるということでもある

さまざまな秘儀において
異界が体験されることもあるが
それもまた日常世界とは異なった世界での
体験を得ることによって
世界の秘密を体得しようとするものだともいえる

悟りの世界もおそらく同様だろうが
重要なのは異界へ往くというよりも
異界から還るということこそが重要である

それは生まれ死に生まれ死にという
果てしなくもみえる繰り返しのなかで
生のなかでこそ(象徴としての)死を
体験する必要があるということ

生は固定された日常のなかに
閉じ込められた宿命的なものではなく
隠された世界をも生きることによって
生と死を超えた果実をもたらすことができるのだから

■篠田知和基『世界異界神話』
 (八坂書房 2021/12)

「異界の神話とは言葉の矛盾ではないかと思われるかもしれない。神話とは神々の物語である。神々の世界は地上の人間とは異なった「異界」であろうから、異界の神話とは神話世界の神話の謂いで、同語反復ではないかと思われるかもしれないのである。しかし「異界の神話」とはかならずしも同語反復ではない、神話は神々の物語であるといっても、人間界を隔絶した天上界の物語ではなく、神々と人間たちとのあいだにつむがれるさまざまな葛藤を物語るのである。むしろ神々ならぬ人間が異界を訪れて、追い返されたりする物語である。神々にもめったにゆくことのできない別世界がある。地上と神々の世界があり、そのほかに「別世界」があるのである。その別世界のできごとを物語るのが「異界の神話」である。」

「別世界とは死の世界、すなわち、「他界」のことと思われるかもしれない。しかしここではあえて、「他界」と「異界」を区別する。「異界」とは「もう一つの世界」であり、他界すなわち死者の世界ではないとするのである。他界は冥界ともいう。また、他界を動詞として使えば死ぬことである。ほかに魔界という概念もあろう。」

「異界とは「もう一つの世界」「別世界」である。冥界の入口は異界である。ギリシャではアケロン川をカロンの渡しに乗って渡った先は異界としてのハデスの王国である。冥界の裁き手がいて、そこまでやってきた亡者を地獄タルタロスへ、あるいは楽園エリュシオンの野へ振り分ける。そしてそこまでは死者ならぬ生者も危険を冒す気ならいけるのである。
 村境から異界がはじまる。しかし他界はもっと先である。祖霊が集まるところを山中他界ともいう。しかし、天狗や山人のすむ領域であれば、他界ではなく、異界である。距離と到達困難性からいえば竜宮は他界とみなされるが、他界を死者あるいは祖霊のすむところとすると、龍宮いは死の影が希薄である。ここでは龍宮も異界とする。アメリカインディアンの世界で、星の世界は往々にして死者の世界だが、同時に星娘、星婿などがいて、彼らが地上におりてくるところでもあって、その場合には異界である。死者の国であっても、多くの物語では、死んだ妻を訪ねにいったりするところで、この世とあの世の境界ではあるが、純粋な死者の世界ではない。死者もいるが、生きている人間も訪問者として受けいれられるところである。そこで試練をうけて本当の死者になる。そこには距離的にも、村境からほんの少し川をさかのぼったところだったりする。近い他界としての異界なのである。死者の国としても「もうひとつの死者の国」である。異界を考えるにはこの「もう一つの」という概念が重要である。」

「異界は他界ではない。つまり死の世界ではない。そこで微妙なのが、ギリシャのハデスである。これを死者の国とするなら、異界ではないが、オルペウス、ヘラクレス、テセウスらのようにそこへ行ってもまた地上へ戻ってくることができる世界としては死の世界ではありえない。もちろんだれでもが行って戻ってこられるわけではない。が、ペルセポネなら、年の三分の二は地上で暮らすことができる。残りはハデスの館ですごすのである。」

「異界を他界と区別して、他界に接するところのようにいったが、異界はかならずしも死後の世界に隣接した地帯だけではない。それはこの世とは異なった「もうひとつの」世界である。夢の世界であってもいい。桃源郷、あるいは龍宮でもいい。が、そういったときにはプラスのイメージが強い。他界ではないからそこへ行ったら二度と帰ってはこられないところではない。ただし、この世への帰還は条件づけられていて、その条件を満たさないと、あるいは禁止条件を守らないと、この世に帰ってきたあとで、二度と異界へは戻れないし。この世でも生きてゆくことはできない。(・・・)夢でもうまく目覚めればいいが、夢とうつつの境の出方をまちがると、狂気の世界に迷い出ることになる。「現実世界への夢の流出」とネルヴァルはその状態を語っている。
 異界論の「権威」と目される小松和彦氏に言わせれば「日常世界としての村落共同体を一歩外へ出れば、そこは他界である(『神々の精神史』)。ここでいう「他界」は本書での「異界」にあたる。
 川村湊氏は『言霊と他界』で、大国主の治める幽冥界について、「この世界から隔絶したものではなく、むしろ、それはこの世界の内部の隠れた世界、あるいは影にある世界」であるという。」

「異界は他界とはちがって、そこから戻ってくることのできるところである。ただ、異界だからこの世とはちがう時間が流れていて、異界の三日は地上の三〇〇年に相当したりする。これは惑星の世界でも地球が太陽の周りを一年かけてまわるのに対し冥王星などでは何百年もかけてまわるのと同じである(二四八年)。これはどちらが時間が速く流れるのかわからない。」
「異界はもうひとつの世界である。「夢はもうひとつの生である」(ネルヴァル)という。(・・・)この世と並行している「もうひとつの生」である。そこにひたりつづけると、地上の論理や時間を忘れてしまう。狂気の世界である。」

「異界への旅はウサギ穴、ネズミ穴からの墜落のように瞬時におこなわれることもあれば、舟に乗る、砂漠を越える、空を飛ぶなど、さまざまな方法で地の果てまでゆく場合もある。夢の世界へはたいてい深い井戸に落ちこんでゆくような墜落の感覚を経て、広々とした野原にでる解放感をあじわうトンネルと花野のプロセスを経る。臨死体験でもそれはほぼ同じである。しかしもちろん、個人によって、風土によって、条件によって、その旅の様相はさまざまである。」

「日本神話には死後世界は黄泉の国と根の国と常世があって、それぞれ肉体の浄化、精神の浄化、存在の浄化に相当し、日本の民俗の世界では、異界と他界と常世があり、幽霊であり、死霊であり、まれびとである。異界はまだ死に切れていない亡者の世界で、他界はあの世で、常世は神の世である。これはフランスなども同じで、墓のなかと墓のかなたと、あの世と別世界を区別し、常世にあたるところは天国で、それぞれの世界からの訪れ人も「戻ってくる人」「「亡霊」「まぼろし」「幽霊」そして「妖精」などといっていた。」

「神は不死であるということも、人は死んだらそれっきりで、二度と戻ってくることはないということもある意味ではパラドックスである。神話では神の死が語られる。幻想譚は亡霊の出現を語る。永遠の生という幻想もある。転生や輪廻という教説もある。(・・・)ある意味では死も異界もパラドックスなのである。魂の世界が「実在」しているとすれば、幽霊も実在している。臨死体験も現実なのである。」

《目次》

序論:異界の神話/異界と他界/神々の世界/異界の時間
I. 異界への旅:1.英雄たちの物語/2.辺境の異界/3.ヨーロッパの異界/ 4.日本・中国の異界/5.文学の中の異界
II. 死の神話:1.神々と英雄の死/2.人間たちの死/3.神の懲罰・悪魔による死/4.臨死体験/5.死の起源の神話
III. 亡霊の神話:1.世界の亡霊譚/2.幻想文学の中の幽霊/3.怨霊名士録

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