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伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ——投壜通信』

☆mediopos3272  2023.11.2

伊藤潤一郎の
『「誰でもよいあなた」へ ————投壜通信』は
二〇二二年二月号から二〇二三年八月号まで連載された
「投壜通信」全一〇回の連載が書籍化されたもの

この連載は「群像」二〇二一年一一月号に
掲載されたジャン=リュック・ナンシーの
追悼論考がきっかけとなり
連載がはじまったとのことだが
本書にはその論考は収録されていないので
今回はそれもふくめてとりあげる

連載中はこのmedioposでとりあげていたが
ふりかえってみれば以下の通り
第一回から最終回の第一〇回まで全部で七回
第六回からは最終回まで毎回

mediopos2620(2022.1.18)第一回
mediopos2741(2022.5.20)第三回
mediopos2914(2022.11.9)第六回
mediopos2977(2023.1.11)第七回
mediopos3041(2023.3.16)第八回
mediopos3104(2023.5.18)第九回
mediopos3162(2023.7.15)第一〇回(最終回)

とりあげていないのは
第二回・第四回・第五回だけなので
その章の紹介もふくめ
「投壜通信」をふりかえってみることにしたい

「投壜通信」というモチーフは
アナクロニックなイメージもあるが
何度もこの連載をとりあげることになったのは
ぼくじしん日々こうして書き記している言葉が
「投壜通信」的でもあるからだろう

手紙を詰めた壜が海原に投じられる
そしてその壜が岸辺に流れ着き
その手紙の入った壜が拾いあげられる・・・

壜の中に入っている手紙は
「誰でもよい誰か」という不特定の人へではなく
「誰でもよいあなた」という
不定性の二人称
「誰かは知り得ないが、どこかにいるあなた」へと
宛てられ投ぜられたものだ

「誰でもよい」のだが
その言葉はほかならない
「誰か」ではない「あなた」へ宛てられている

そんな言葉が
この世界にはたしかに存在し
時空を隔て
手紙を書く「わたし」と
じぶんに宛てられたものだと思う「あなた」との
不思議な関係が奇跡的に生まれることがある

それはときには
時を隔てた知らないじぶんに宛てた
手紙ともなることもあるだろうが

そんな不定性の二人称に宛てているからこそ
可能となるのが「投壜通信」である

さてまだとりあげていなかった「2.庭付きの言葉」では
「とてもよくできてはいるが窓が開いていない言葉」
となっている「庭を欠いた言葉」ではない
「庭付きの言葉」が「投壜通信」として示唆されている

「庭付きの言葉」とは
「唯一の答えという考え方から距離を取るもの」であり
すぐには理解されないかもしれないが
そこから「新たな芽が出てくる可能性が残りつづける」
そんな言葉のことだ

「4.私にとっての赤」で示唆されるのは
異なった経験をしているにもかかわらず
同じ言葉を「投壜通信」することによって
「あなた」の経験を肯定する可能性である

存在するのは「私にとっての赤」だけであり
「多数派にとっての赤」というものはありえず
交換不可能な経験でしかないのだが
たとえば色盲者が経験する「赤」にしても
その「赤」という言葉の「投壜通信」は
それを「証言として受け取る「あなた」が現れる」
そのことを信じてなされることで
「〈正常/異常〉の分類の外へ出」て
色盲者の色彩経験も肯定され得るものとなる

「5.一人の幅で迎えられる言葉」では
石原吉郎の「一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。
不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない」
という言葉から
「情報ではない「思想」」としての「投壜通信」が示唆される

社会や共同体において使われる
「三人称が支配するような言葉」では
「その言葉を私だけが引き受けているという感覚は生じえない。
いわば、言葉は情報に堕している」が
「「あなた」へと宛てられた言葉には、
それをほかならぬ私に宛てられたものとして受け取り、
「一人の幅」において受け止めるひとが現れる可能性がある。
そこにおいてはじめて、情報ではない「思想」が生まれる」

「投壜通信」は
「誰でもよいあなた」への言葉だが
その言葉がまさにじぶんに宛てられている
そう受け取られるとき
その「あなた」は不特定多数ではなく
まさに「あなた」でなくてはならない

「投壜通信」の投げ手は
そんな「あなた」が存在することを信じ
呼びかけつづけている

パウル・ツェランは
「何か開かれているもの、獲得可能なもの、
おそらくは語りかけることのできる「あなた」、
語りかけることのできる現実を目指している」
「そのような現実こそが詩の関心事だと私は思います」
と語っているが

「詩」とは
「三人称が支配するような」情報の言葉ではなく
そんな「投壜通信」のような言葉だともいえるだろう

■伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ————投壜通信』
 (講談社 2023/10)
■伊藤潤一郎「誰でもよいあなたへ/
     ジャン=リュック・ナンシーからの投壜通信」
 (群像2021年11月号)

(伊藤潤一郎「誰でもよいあなたへ/ジャン=リュック・ナンシーからの投壜通信」より)

「「誰でもよいあなた」の具体的なイメージとしては、多くの詩人たちによって語られてきた「投壜通信」の宛先を考えるとよいだろう。難破した船のうえで壜に詰めた手紙を海に投げ入れるイメージは、ポーやマラルメなど多くの詩人たちによって詩作のモチーフとされてきたが、そうした難破船から海に投げ入れられた手紙の宛先は。「誰でもよい誰か」ではなく、「誰でもよいあなた」にちがいない。投壜通信は、流れ着いた岸辺でその壜を拾い上げたほかならぬ「あなた」に呼びかけているのである。当然、この「あなた」は、投げ手が想定していたひとではない場合がほとんどだが、にもかかわらず投げ手はみずからの手紙を引き受けるほかならぬ「あなた」を求めている。むしろ、そのような「あなた」が存在する(存在しうる)ことを信じなければ、投壜通信という行為は成り立たない。このような「信」は、まさにパウル・ツェランが投壜通信に仮託して述べていたものにあたる。

   詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日かどこかの岸辺に、おそらくは心の岸辺に流れつくという————必ずしもいつも期待に満ちてはいない————信のもとに投げ込まれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるもの、つまり何かを目指すものです。
   何を目指すのでしょうか。何か開かれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実を目指しているのです。
 そのような現実こそが詩の関心事だと私は思います。

 ツェランが語る「あなた」と、ナンシーが語る「あなた」のあいだの距離は、目の前にいたり、すぐに現れたりするとは限らない。したがって、言葉を投げた私は「あなた」によって承認されるかも定かではない。このような二人称との関係においては、〈私/あなた〉という二者関係が陥りやすい鏡像関係が成り立たなくなる。それゆえに、こうした「あなた」を思考することは、「一般的等価性」とは異なる関係性のあり方を考えることになるのだ。つまり、「誰でもよいあなた」においては、「相互接続(interconnexion)の「相互(inter)」が容易には成り立たなくなり、交換関係が失調するのである。
 しかしながら、投壜通信というモチーフからしても、このような思考はアナクロニックにみえるかもしれない。とはいえ、壜を拾う側から考えてみれば、投壜通信は誰の身にも起きていることではないだろうか。たとえば、ひとには誰しも、これは自分に宛てられたものだと思ってしまう言葉がある。もちろん、その言葉を投げたほうは、私のことなど知らない場合がほとんどだろう。にもかかわらず、それをほかならぬ私に宛てられたものとして受け取れてしまうという、この謎の一端を明らかにするのが「誰でもよいあなた」という独特な二人称なのである。また、投げ手の側から考えてみても、現代のような時代であればこそ不定の二人称は批判的に働くかもしれない。たとえば、SNS上に溢れる言葉の多くは、「誰でもよい誰か」という不特定多数に向けて発せられたものであり、そこでは「いいね」の数やフォロワーの数という量こそが尺度となっている。それに対し、「誰でもよいあなた」は量の多寡を問題にすることがない。むしろ、「一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない」という石原吉郎の言葉に近い位置にあるのが、「誰でもよいあなたへ」という言葉の差し向けなのである。
 むろん、そのようにして投げられた言葉を拾い上げるひとが現れるのは、投げ手の死後かもしれないし、投げ手の意図は正確には伝わらないかもしれない。それでも、いつかどこかで「あなた」に言葉が届くという信が(あるいは、そうであって欲しいという欲望が)、言葉を投げる者の原動力なのである。「誰でもよいあなた」に言葉が届くことを信じて、このやり取りとも言えないようなやり取りをつづけていくときに立ち現れるものこそ、おそらくナンシーが「共同体」という言葉で語ろうとしていたことにちがいない。」

(伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ————投壜通信』〜「2.庭付きの言葉」より)

「「とてもよいですね、けれどそこに庭は?」
 博覧強記で知られる二〇世紀フランスの哲学者ポール・リクールは、弟子が出版した初の著書を読んで本人にこう告げたという。しかも、庭に面した窓を開けながら言ったというのだから、哲学者は弟子の本に何らか閉じたものを感じたのだろう。庭を欠いた言葉。とてもよくできてはいるが窓が開いていない言葉。それはどのようなものだろうか。」

「少しばかり視点をずらして、これはすぐには理解されないことを狙った言葉なのだと考えてみたらどうだろうか。つまり、謎めいた言葉を発するという行為それ自体が、この言葉を読み解くヒントになっているのである。」

「庭付きの言葉が唯一の答えという考え方から距離を取るものである以上、「物そのもの」を指し示す言語という問いにはつねに新たな芽が出てくる可能性が残りつづける。次に芽が吹くにはいつになるだろうか。いまはそのこときを待ちながら、クレマン(フランスを代表する庭師ジル・クレマン)の言葉を最後にもうひとつだけ引いておこう。

   創出は生じるままにしておくこと。ある創出に、また別の創出が続いていくから。」

(伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ————投壜通信』〜「4.私にとっての赤」より)

「主観的な経験に関してまず疑わなければならないのは、「全員が同じ経験をしている」というこの信憑性なのである。(カントの純粋統覚もウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における眼のメタファーもバタイユの「松果体の眼」も、すべて視覚そのものを見ることの困難を言い表すものだといってよいだろう。つまりそれは、感覚器官としての眼は鏡に映せば見えるが、鏡に映す眼を見ている視覚を見ることはできないという困難である。(・・・)
 けれども、まさにこのメタ視覚の不在こそが、視覚経験を特異なものにしている。一段上の視点に立って、誰かと誰かの視覚を比べることなどできないからこそ、あらゆるひとの視覚は他者の視覚との比較を絶した特異なものとしてある。にもかかわらず私たちのなかには、他のひとも私と同じように見ているだろう、そして全員が同じように見えているだろうという信憑が根強く存在している。このような思い込みが生まれる原因の一端は、おそらく言語がもつ一般性にある。たとえば、あるひとが花を見たときに、その色彩経験を「赤」という言葉で相手に伝えたとしよう。相手もその花を見て、その色彩経験が「赤」という言葉で言い表せると考えるならば、両者のあいだで齟齬は発生しない。(・・・)
 色彩経験が「〜にとって」という視点をつねにともなう以上、その経験はどこまでも各人に特異なものであり。交換不可能なものでりつづける。したがって、厳密に考えれば「多数派にとっての赤」というものはありえず、存在するのはそれぞれのひとの「私にとっての赤」だけなのだ。」

「「赤」という言葉が証言として差し出されるとき、その「赤」はそれを証言として受け取る「あなた」を待っているのだ。「赤」という単語ひとつであっても、それが証言として口にされたり書かれたりしたものであるならば、この「赤」はそれを受け取る「あなた」を待つ投壜通信なのである。たとえ訂正されることになろうとも、証言として受け取る「あなた」が現れることを信じて、私は「赤」という言葉を口にしつづける。〈正常/異常〉の分類の外へ出るために、色盲者の色彩経験を肯定するために。」

(伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ————投壜通信』〜「5.一人の幅で迎えられる言葉」より)

「   一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない。

 石原吉郎の「一九六三年以後のノートから」の一節である。」

「石原が語る「失語」とは、いかにしても平均化されえない主観的性質の証言の不在であり、それにともなう一人称と二人称の生滅にほかならない。まさに質を示す表現こそが、収容所における生と「人間的」な生を分けるのである。」

「言葉の宛先としての二人称は、収容所のような極限的な状況でなくとも容易に失われてしまう。石原が「ノート」に書きつけた「不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない」という言葉は、収容所における形容詞の消滅だけでなく、二人称への語り掛けが失われるさまざまな状態を指しているだろう。そして、特定の二人称であれ、不定の二人称であれ、「あなた」を欠いた言葉がけっして引き起こしえないことこそ、言葉が「一人の幅で迎えられる」ということなのだ。三人称が支配するような言葉においては、意味はつねに誰にとっても同じものであり、その言葉を私だけが引き受けているという感覚は生じえない。いわば、言葉は情報に堕している。それに対し、「あなた」へと宛てられた言葉には、それをほかならぬ私に宛てられたものとして受け取り、「一人の幅」において受け止めるひとが現れる可能性がある。そこにおいてはじめて、情報ではない「思想」が生まれるのだ。」

「石原の単独者の思想に対しては、社会や共同体といった集団性に対する視点が欠落しているという批判が何度か向けられてきた。たとえば、芹沢俊介は石原の思考が社会という次元を欠いていると批判し、石原がみずからを冷遇した親族を告発した「肉親へあてて手紙」を「四十半ばの男にしては驚くほどナイーブな無知をさらしている」とこきおろしている。しかし、芹沢が求めるような社会についての問いがないからこそ可能になる思考もあるのではないか。芹沢のような思考では、私たちのあいだを馬が走り抜けることはけっしてない。社会という現実を考えることで起きる暴走はたしかにあるだろう。けれども、暴動は言葉によっても生じるのだ。三人称の支配という収容所の経験を経た石原の言葉は、「あなた」へと宛てられている。それを「一人の幅」で迎え入れるとき、一頭の馬が駆け抜け、「思想」が生まれる。その「思想」は、既存の社会秩序を乱す不穏な「暴動」であるだろう。この「暴動」を肯定することこそ、私が「一人の幅」において石原から受け取った投壜通信にほかならない。」

○伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ————投壜通信』
 目次
1.「あなた」を待ちながら
2.庭付きの言葉
3.岸辺のアーカイヴ
4.私にとっての赤
5.一人の幅で迎えられる言葉
6.記憶と発酵
7.断片と耳
8.誇張せよ、つねに
9.あてこまない言葉
10.「あなた」とともに

○伊藤 潤一郎
1989年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『ジャン=リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にジャン=リュック・ナンシー『アイデンティティーー断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルスーーcovid-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後でーー黙示論的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

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