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戸谷洋志『恋愛の哲学』/丘沢静也『恋愛の授業』/ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』/C.G.ユング『転移の心理学』

☆mediopos3405  2024.3.14

恋愛とはなにか

それを哲学の観点から考える
戸谷洋志『恋愛の哲学』は
プラトン・デカルト・ヘーゲル・キルケゴール
サルトル・ボーヴォワール・レヴィナス
七人の哲学者が論じている人間と世界の関係から
恋愛観を比較することで
人間とは何かを問い直している

比較されている観点は
恋人との一体性
恋人との相互性
愛の理解可能性
という三つだが
哲学的に論じられる恋愛というのは
どこか痒いところに手が届かない感がある

現代において恋愛といえば
「ロマンティック・ラブ」で
その「幻想」を解体したうえでの
哲学的観点からの恋愛観ではあり
それぞれの論点はわかるのだが
はたしてこの選ばれた七人が
「恋愛とはなにか」を語るにあたって
適しているかどうかというのは検討の余地があるだろう

哲学は基本的に「思考」による営為だが
恋愛は感覚・感情を抜きにして論じることは難しい

論じるにあたっては
「哲学」から「文学」や「魂の学」へと
横断的な視点が求められるのではないだろうか

その観点からここでは
丘沢静也『恋愛の授業』
ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』
ユング『転移の心理学』を合わせてとりあげることにした

丘沢静也『恋愛の授業』は
オペラ・文学・哲学・映画・ドラマといった多彩な素材から
繰り出される恋愛に関する問いと
それに対する出席者(学生)の声からつくられた授業の報告である

恋愛についてのQ&A的なかたちではなく
さまざまな作品を素材としながら
恋愛について若者とともに考えるライブ的な場は
「恋愛とはなにか」という問いを通じて
じぶんや人間関係の今について考える重要な契機となっている

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』は
バルトならではの恋愛百科全書であり
「数ある先例にならわず、一次言語(メタ言語でなく)
の働きにのみ依拠するという「演劇的」方法」によって
複雑微妙な恋愛の諸相が開示されていて
現代の恋愛論の白眉ではないかと思われる

そしてユング『転移の心理学』である

戸谷洋志『恋愛の哲学』では哲学的な観点から
恋人との一体性・恋人との相互性・愛の理解可能性が
比較されているが

「恋愛とはなにか」という問いは
「わたしたちは恋愛によってなにを行っているのか」
言葉をかえれば
「なぜ恋愛をするのか(せざるを得ないのか)」
「魂にとって恋愛はどのような働きをしているのか」
ということがさらに問われる必要があるだろう

ユングの心理療法は
それが錬金術的な魂の「個性化」をはかるための
プロセスであるという視点からすれば
「恋愛」は医師とクライエントとのあいだの
「転移」という現象に似ている

個性化といえばふつうは
一人の人間において進行するのだが
「転移」は医師とクライエントという
二人の間で進行する個性化過程である

その「転移」の可能性と危険性という視点から
「恋愛」を二人のあいだで進行する
一体性・相互性・理解可能性をめぐる
錬金術的な個性化のプロセスとしてとらえることができる

丘沢静也『恋愛の授業』で
「サッカーボールとラグビーボール」にたとえられた
恋愛の破滅曲線とサバイバル曲線も
そうした「個性化」過程の一コマともいえる

「ある人に〈好意〉をいだく。
ある日、気がついたらその人のことが好きになっていた。
〈恋〉が始まる。まわりのことまでが美しく見え、
「新しい私」が現象する。
毎日、朝から晩までその人のことが気になって、
夜も眠れない。〈依存〉が始まる。
どれくらい依存するか、どんな具合に依存するか。
そこに恋の醍醐味がある。

依存と同時に「私」の変形も始まる。
変形には、弾性変形と塑性変形の2種類がある。
ある日、突然、ストンと意志が胸から落ちるように、
依存が終わる。恋の終わりだ。
弾性変形なら、もとの形に戻る。
しかし塑性変形の場合、もとの形は破断してしまっている。
前者は、依存の波をうまく乗り越える恋愛サバイバル曲線。
後者は、依存の波に溺れて沈む恋愛破滅曲線。
ラグビーボールとサッカーボール、
あなたはどちらのタイプかな?」

魂の錬金術的な個性化過程は
さまざまな現象のなかであらわれ続け終わりはないが
そんななかでとりわけ「恋愛」は
死と再生の秘儀のような重要な役割を持っている

■戸谷洋志『恋愛の哲学』(晶文社 2024/2)
■丘沢静也『恋愛の授業 恋は傷つく絶好のチャンス。めざせ10連敗!』
 (講談社選書メチエ  講談社 2023/5)
■ロラン・バルト(三好郁朗訳)『恋愛のディスクール・断章』(みすず書房 1980/9)
■C.G.ユング(林道義・磯上恵子訳)『転移の心理学』(新装版 2000/10)

*(戸谷洋志『恋愛の哲学』〜「はじめに」より)

「恋愛とは何だろうか————それを哲学の観点から考えることが、本書のテーマだ。」

「私たちが「なんとなく」分かった気になっている程度のものであるにもかかわらず、人生を大きく左右するもの、それが恋愛だ。」

「恋愛観として、現代社会においてもっとも大きな影響力を持っているのは、ロマンティック・ラブと呼ばれる考え方だ。
(・・・)
 しかし、この恋愛観は歴史的に見ればそれほど古いものではない。ロマンティック・ラブは、西洋においては近代に出現し、日本においては高度経済成長期に浸透した恋愛観である。だからそれが、決して、唯一絶対の恋愛観ではない。多用でありえる恋愛観のなかの、一つの可能性でしかない。」

「本書では、七人の哲学者の恋愛論を紹介する。プラトン、デカルト、ヘーゲル、キルケゴール、サルトル、ボーヴォワール、レヴィナスである、七人は、それぞれが違った仕方で人間と世界の関係を捉え、その人間観のなかで恋愛を論じている。恋愛とは何かを考えることは、そもそも人間とは何かを問い直すことを要求するからだ。」

*(戸谷洋志『恋愛の哲学』〜「おわりに」より)

「比較をするためには観点が必要である。本書はそうした観点として、恋人との一体性、恋人との相互性、愛の理解可能性、という三つを設定することにしよう。」

「第一に、恋人との一体性が意味しているのは、恋人と一つになるということが、恋愛が成立するためには必要であるという考え方だ。そうした一体性をもっとも強く強調するのは、おそらく、ヘーゲルだろう。彼は愛を、「われであるわれわれ」へと統一することのうちに見出し、文字どおり「私」が恋人と融合する事態を恋愛の理想としたからである。それに対して、この発想を断固として拒絶するのは、レヴィナスだろう。彼の考え方に従えば、恋人と一体化しようとすることは、恋人を全体生へと還元しようとする暴力に他ならない。そうした暴力を乗り越えようとするものが、彼にとっての愛なのだ。」

「第二に、恋人との相互性が意味しているのは、「私」が恋人に対して行うことを、恋人もまた「私」に対して行いうるということが、恋愛が成立するためには必要であるという考え方だ。この点を重視する哲学者としては、まず、ボーヴォワールを挙げることができる。彼女は、女性を男性に依存させる社会構造を批判し、両者がともに主体性をもつ存在として関わり合う恋愛を、理想的なものとして説明していた。それに対して、サルトルは、こうした発想を認めない。彼にとって愛とは、何よりも愛されることを願うことであり、恋愛は非相互的な関係としてしか成立しえないかただ。「私」と恋人の相互性は、むしろ、愛を挫折させることになる。」

「第三に、愛の理解可能性が意味しているのは、恋愛において、自分がなぜ相手を愛しているのかを説明することができる、という考え方である。デカルトは明らかにこのような立場を支持する哲学者だろう。なぜなら彼は、愛を自分の欠如を満たすものとして捉え、それを補完する「第二の自己」として、恋人を捉えていたからだ。また彼はそれを情念という科学的に記述可能な概念によって説明していた。それに対して。このような発想を受け入れない哲学者としては、プラトンを挙げることができる。なぜなら彼が、そもそも恋愛は狂気に基づくものであり。自分がなぜ相手を愛しているのかが理解できない、ということは、本来の恋愛の条件であると考えたからだ。」

*(丘沢静也『恋愛の授業 恋は傷つく絶好のチャンス。めざせ10連敗!』〜「はじめに」より)

「〈魔の金4〉と私が呼び、東京都立大学南大沢キャンパスの学生たちには「恋愛学」と呼ばれている授業を、10数年前からやっているのですが、この本は、その報告です。(・・・)

 授業中に書いてもらうリアクションペーパーのことを、「紙メール」と呼んでいます。その紙メールが、〈魔の金4〉の羅針盤。紙メールをピックアップし、匿名で紹介しながら授業を進めていくわけですが、紙メールから学生の「本音」や「実態」が読みとれます(あくまでもカッコつきの「本音」であり「実態」ですが)。若者の「草食化」や「恋愛離れ」、「保守化」や「政治離れ」というレッテルをよく見かけます。レッテルは簡単には剥がせません。が、〈魔の金4〉をやっていると、叱咤激励をしなくても、ひじで若者をちょっと突つけば、レッテルをちょっとズラすことができるかも、という感触があるのです。
(・・・)
 報告のベースにするのは、2019年度の金曜4限、つまりコロナ以前の対面授業です。もちろん全面的な紹介ではなく、紹介の仕方は、私の話を要約しただけのセクションもあり、紙メールをたくさん紹介したセクションもあります。」

*(丘沢静也『恋愛の授業 恋は傷つく絶好のチャンス。めざせ10連敗!』〜「めざせ10連敗!ヴィトゲンシュタインの教え §17 サッカーボールとラグビーボール」より)

「恋愛には、破滅曲線とサバイバル曲線がある。ある人に〈好意〉をいだく。ある日、気がついたらその人のことが好きになっていた。〈恋〉が始まる。まわりのことまでが美しく見え、「新しい私」が現象する。毎日、朝から晩までその人のことが気になって、夜も眠れない。〈依存〉が始まる。どれくらい依存するか、どんな具合に依存するか。そこに恋の醍醐味がある。
 依存と同時に「私」の変形も始まる。変形には、弾性変形と塑性変形の2種類がある。ある日、突然、ストンと意志が胸から落ちるように、依存が終わる。恋の終わりだ。弾性変形なら、もとの形に戻る。しかし塑性変形の場合、もとの形は破断してしまっている。前者は、依存の波をうまく乗り越える恋愛サバイバル曲線。後者は、依存の波に溺れて沈む恋愛破滅曲線。ラグビーボールとサッカーボール、あなたはどちらのタイプかな?」

*(丘沢静也『恋愛の授業 恋は傷つく絶好のチャンス。めざせ10連敗!』〜本書の紹介コピーより)

「オペラ、文学、哲学、映画、ドラマなど多彩な素材から繰り出される問いの数々と、出席者の等身大の声でつくりあげられた異色にして極上の授業の報告。

 金曜4限の「ドイツ語圏ドイツ文化論」、学生たちがつけたまたの名を「恋愛学」。2010年頃に始まったこの授業は、「彼(彼女)にも受講してほしい」と口コミで広がり、ついには参加者200名超にも及ぶ人気講義になりました。

 《カルメン》や《ドン・ジョヴァンニ》などのオペラ、太宰治の恋文、ヴィトゲンシュタインの哲学、『存在の耐えられない軽さ』にドラマ『あまちゃん』まで、多彩な素材をもとに恋愛について考えます。

 授業を彩るもうひとつの重要な要素が授業のリアクションペーパー、通称「紙メール」。「草食化」、「恋愛離れ」というレッテルを貼られがちな20代の等身大の声を導きの糸に、授業は縦横無尽に展開していきます。

 恋は、がんばったからといって上手くいくものではありません。相手の気持ちはもちろん、自分の気持ちもコントロールできない。「私は、私という家の主人ですらない」(フロイト)のが人間です。コントロールできない局面でどうふるまうか――。恋愛に正解はありません。だからこそ恋について考えることは、「私」やコミュニケーションについて考えを深める、またとない機会でもあります。

 「パルラ・バッソ(低い声で語れ)」、「捨恋」、「オイラー図」、「136問題(「伝えたいことが10あったとする。文字情報で伝わるのは1。声の調子や表情や身ぶりなどで伝わるのは3。残りの6は伝わらない」)」……ユニークで一度聞いたら忘れられない合言葉の数々。思わず自分の恋も語りだしたくなる? 感情揺さぶる〈実況中継〉講義。」

*(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』〜「この書物はどのように作られているか」より)

「すべては次のような原則から出発している。恋する者を単なる症候群に還元するのではなく、むしろ、その声にあって何が現実ばなれしたものであるのか、何が手に負えぬものであるのかを聞きとれるようにすること。数ある先例にならわず、一次言語(メタ言語でなく)の働きにのみ依拠するという「演劇的」方法が選択されたのもそのためである。つまり、恋愛のディスクールを記述するかわりにその模擬物をおき、これにわたしという基本的人称を与え、分析ではなく発話行為そのものが上演されるようにした。言ってみれば。ここで企てられているおは一種のポルトレ(活写文)である。ただし、このポルトレは心理的なものではない。構造的なものなのだ。それが読みとらせようとしているのはことばの場である。語ろうとせ他者(恋愛の対象)を前に、おのが内部で恋情のままに語りつつある誰かの場、なのである。」

・3 出典
「恋愛主体の構成には、出典の異なるさまざまな断章が「組み立て」られた。恒常的な読書から来たもの(ゲーテの『若きウェルテルの悩み』)。集中的な読書から来たもの(プラトンの『饗宴』、禅、精神分析学、数人の神秘家たち、ニーチェ、ドイツ・リート)。おりおりの読書から来たもの。友人との会話から来たもの、そして最後に、わたし自身の人生体験から来たものがある。」

*(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』〜「私は狂っている」より)

「「私は狂っている」

  FOU 狂人
  恋愛主体はしばしば自分が狂っている、あるいは狂いつつあるという思いに襲われる。

1 恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。わたしは自分のイメージを二分しているのだ。自分の眼にわたしは気のふれたものと映る(わたしは自分の錯乱のなんたるかを識っている)のだが、他人の眼にはただ変っているだけと映るだろう。わたしが自分の狂気をいたって正気に物語っているからだ。わたしはたえずこの狂気を意識し、それについてのディスクールを維持しつづけている。」

*(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』〜各項目より(フランス語のアルファベット順だが、ここでは訳語順で))

「底なしの淵に沈む/不在/素晴しい/肯定/変質/苦悩/無力化/苦行/アトポス/待機/隠す/所を得る/破局/制限する/こころ/充足/共苦/理解する/行動/共謀/接触/不測のできごと/肉体/告白/奉献/悪魔/服属/消費/脱現実/ドラマ/生皮を剥がれた者/書く/彷徨/抱擁/追放/腹だたしさ/フェイディング/あやまち/祝祭/狂人/困惑/グラディヴァ/服装/同一化/イメージ/知りがたい/誘導/報告者/耐えがたい/出口/嫉妬/わたしは・あなたを・愛しています/憔悴/手紙/多弁/魔法/怪物のような/沈黙/雲/夜/アブジェ/みだらさ/泣く/うわさ話/なぜ/拉致/故人/出会い/反響/目覚め/いさかい/ひとり/記号/追憶/自殺/あるがまま/やさしさ/合体/真実/占有願望」

*(C.G.ユング『転移の心理学』〜「序文」より)

「フロイトが「転移」と呼んだ現象は、心理療法の臨床に自らたずさわっている者なら誰でもよく経験する、むずかしい問題である。」

「転移はある人には治療薬となり、他の人には劇薬となる薬に喩えることができる。転移が起こることによって症状が好転するケースもあれば、悪化とは言わないまでも、支障や面倒が起こすケースもあり、また転移がさほど重要でないケースもある。転移はしかしたいていは、さまざまな意味あいをもった重要な現象であり、また転移が起こることも、起こらないことも、同じように多くのことを意味している。」

「転移は一つの関係形態であるため、つねに「相手」を前提とする。転移が否定的なものであったり、まったく存在していないばあいには、「相手」は重要な役割を果たさない。このことはたとえば、劣等感コンプレックスとそれを補償する自己顕示欲についてもつねに当てはまる。」

「私は読者が拙著『心理学と錬金術』を読んでいることを前提にしなければならない。なぜならこれを読んでいない人はおそらく『転移の心理学』を取りつきにくいと感じるであろうからである。」

*(C.G.ユング『転移の心理学』〜「総論」より)

「錬金術においてほかならぬ神秘なる婚礼という観念が非常に重要な役割を果たしていることは、その代用としてよく使われる《結合》という表現が何よりも、今日化合と呼ばれる事柄、および結びつくべき物質同士を結合させる力、すなわち今日でいう親和力、を意味していることを考えれば、驚くに当たらない。しかしかつてはさまざまな呼び名が使われた。それらはたとえば婚礼・結婚・友愛。魅惑・媚びへつらい・というように、どれもみな人間的でとくに性愛的な関係を表している。」

「われわれは錬金術が、〔一方では〕自らの神話的な前提から脱却すべきことを次第によく理解したことによって化学へと変化したばかりでなく、〔他方では〕それが一種の神秘的な哲学となった、あるいはある意味では初めからずっとそうであったということを知っている。したがって、《結合》の理念は一方で化学的結合の見えざる秘密を解き明かすことを可能にし、他方でそれは神話素とそての対立の結合という元型を表現し、それによって《神秘的合一》を著すイメージとなる。」

「《結合》が錬金術にとって重要なイメージであり、またその臨床上の価値がのちの発展段階において証明されたように、こころ(ゼーレ)に対しても同じように重要な価値をもっている。すなわちこのイメージは、〔化合という〕物資の不可解な性質を認識するために役立ったのと同様に、内部のこころの暗闇を認識するためにも役立つのである。」

「臨床における分析によって、無意識の内容はいつでもまず客体である人物や関係に投影されて現れる、ということが明らかになった。投影の多くは、それが主観的なものに起因していることを個人が認識することによって、最終的にはその個人に統合されるが、しかし統合されないものもあり、それらは最初の客体を離れても、今度は治療している医師に投影される。それらの内容の中で特別の役割を果たしているのが、息子−母、娘−父といった異性の親との関係、またそれと並んで兄−妹〔姉−弟〕関係である。このコンプレックスは、ほとんどいつも医師が父親や兄の、さらには(もちろんかなり稀ではあるが)母親の代わりをするため、完全には統合されないのがふつうである。この投影は、経験によれば、もとの〔関係と同じ〕強さを持っており(これをフロイトは病因と考えた)、したがってここに生じる結びつきはあらゆる点で初期の幼児関係と同じであり。また幼児期のあらゆる経験を医師〔との関係〕の中で再現する傾向を、言い換えれば神経症的に損なわれた適応関係がいまや医師に転移されるという傾向を持っている。それゆえにこの現象に最初に気づいて報告したフロイトは、これに「転移神経症」という用語を当てた。」

「錬金術は、医師が無意識と取り組む中で観察することができるあの心の現象を大づかみに描写しているばかりでなく、ときには驚くほど詳細に描いてもいる。「私が〔自我が〕欲する、私が〔自我が〕考える」などと声高に叫ぶ人間の見せかけの統一は、無意識と激しく衝突すれば砕け散ってしまう。患者が、自分が苦境に陥った責任が他者(たとえば父親や母親)にある、と考えられているあいだは、彼は自分の見せかけの統一を守ることができる。(《統一体であるかのように見える》!)しかし彼が、影を抱えているのは彼自身であり、彼自身が敵をいわば「自分の胸に」かくまっている、と見抜いたとき葛藤が始まり、一は二になる。そして「このもう一人の自分」もまた二元的であり、いやそれどころか多数の対立項から成り立っていることがしだいに明らかになるため、彼の自我はまもなくいつくもの《意志》に翻弄されmそれによって「光は陰り」はじめる、つまり意識のエネルギーが低下し、自らの人格が持つ意味とその広がりがわからなくなる。これはときには非常に暗い通路であるため、患者は最後の現実のように見える医師にしばしばすがりつかざるをえない(そうすべきである、という意味ではない!)。この状況は双方にとって苦しく辛いものであり、このとき医師は、秘薬である金属を坩堝の中で溶かしているのか、あるいは彼自身が火中で灼熱する火蜥蜴(サラマンダー)なのか、ときには自分でも区別がつかなくなるあの錬金術師と同じ思いをたびたび体験する。この避けられない心的感染によって両者は第三の変容を迫られ変容させられるのであるが、このとき起きている事柄の深い暗闇をわずかに照らすのはゆらめく小さなランプにも等しい医師の見識のみである。」

○戸谷洋志『恋愛の哲学』目次

・はじめに
・第1章:なぜ誰かを愛するのか?――プラトン
・第2章:なぜ恋愛に執着するのか?――デカルト
・第3章:なぜ恋人に愛されたいのか?――ヘーゲル
・第4章:永遠の愛とは何か?――キルケゴール
・第5章:なぜ恋愛は挫折するのか?――サルトル
・第6章:女性にとって恋愛とは何か?――ボーヴォワール
・第7章:なぜ恋人と分かり合えないのか?――レヴィナス
・おわりに

○丘沢静也『恋愛の授業』内容

「あしたの天気は、晴れか曇りか雨です」――反証可能性
モテる男は叫ばない――136問題
「カタログの歌」――ドン・ジョヴァンニの哲学
めざせ10連敗!――ヴィトゲンシュタインの教え
「さあ聞け。男(女)が思ったが、言わなかったことを」
自分の無力に思い上がるな
手紙に書いたキス
恋愛のピリオド奏法
ふりをする――世界は舞台/そして男も女も役者にすぎない?
なぜドン・ジョヴァンニはトリスタンになったのか
非接触系の愛――1対(1)
「絶望するな。では、失敬」
……など。

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