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戸谷洋志「メタバース現象考 ここではないどこかへ 3」(『群像』2023年9月号)

☆mediopos3194  2023.8.16

ベンヤミンは現代社会を
「複製技術時代」と呼び
「アウラの失われた時代」とした

ベンヤミンにとっての「複製技術」は
「写真」に代表される手法であり
逆にいえば複製ができず
「真正性」をもっている「本物」には
「アウラ」があるということができる

つまり「オリジナルのもつ〈いま——ここ〉的性質が、
オリジナルの真正さという概念を形づくる。」
「真正さの全領域は、技術的————
そしてもちろん技術的なものだけではない————
複製の可能性を受けつけない。」
というのである

しかし現代はベンヤミンの時代には
想像しえなかっただろう技術を可能にしている

NFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)である

それは「潜在的には無限に複製することが可能な
デジタルデータに対して、
本物と偽物の違いを区別できるようにする技術」であり
「まったく同じ外観をした無数のデータのなかで、
一つだけの本物を特定することを可能にする」

しかしNFTに「アウラ」は存在しない

「アウラ」は
「ただ事物の唯一性を指すだけの概念ではない」からだ
「〈芸術作品が「いま——ここ〉にあるという性質」がある

つまりそこには
「経年変化」する「作品の物質的構造」があり
そうした「質料の経年変化が
オリジナルの歴史性を支えている」

たとえNFTの「ハッシュ値の記録」が
そのデータの真正性を判定することができたとしても
「一回しか生起しない〈いま——ここ〉を
開示すること」はできない

NFTは「アウラなき真正性の技術」なのだ

私が私であるということも
たとえ私のクローンが存在し
そこに記憶データがインプットされていたとしても
それはこの「一回しか生起しない〈いま——ここ〉」に
存在している「私」ではない

私は身体をもって生まれ
「経年変化」しながら
「私」という「歴史性」を生きている

とはいえさまざまなかたちをとって
「複製技術」は展開していくだろう
そして「アウラ」を見いだす力を失ったとき
「複製技術」に呑み込まれもするだろう

しかし「アウラの失われた時代」にこそ
「アウラ」を見いだすことのできる力を
育てていかなければならない

■戸谷洋志「メタバース現象考 ここではないどこかへ 3」
 (『群像』2023年9月号)

「ヴァルター・ベンヤミンは、現代社会を「複製技術時代」と呼んだ。そしてその時代を、アウラの失われた時代として性格づけた。ある事物がこの世界に一つしか存在せず、〈いま——ここ〉にしかないということ————それが、その事物が本物であること、すなわち真正性の条件である。アウラはそうした真正性から立ち現れる。しかし、写真に代表される高度に技術的な複製手法は、その条件を破壊したのである。

 私たちは、そうしたベンヤミンの時代診断に逆行するテクノロジーと直面している。それがNFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)である。

 NFTとは、潜在的には無限に複製することが可能なデジタルデータに対して、本物と偽物の違いを区別できるようにする技術である。つまりそれは、まったく同じ外観をした無数のデータのなかで、一つだけの本物を特定することを可能にするのだ。この意味において、NFTは複製技術時代において再び真正性を取り戻そうとする試みである。さしあたり、そう評価することができるだろう。

 しばしばNFTはメタバースと親和性が高いと言われており、アバターやアイテムなどがNFT化され、自由に売買されるようになる未来が描かれている。では、果たしてそれは、本当に「複製技術次代」への抵抗になりうるのだろうか。NFTが作り出す事物の真正性は、ベンヤミンの考えていたそれを復活させることになるのだろうか。」

「結論から言えば、そうした望みはない。

 たしかに、NFTは複製可能なデータに対して唯一性を付与することができる。しかし、ベンヤミンの言うアウラは、ただ事物の唯一性を指すだけの概念ではない。

(・・・)

 アウラとは、芸術作品が〈いま——ここ〉にあるという性質、言い換えるなら「一回的にあるとう性質」に他ならない。そしてその一回性を支えているのは、何よりもまず、「作品の物質的構造」である。すなわちその作品が質料を持ち、物質によって担われているということだ。作品は、それが質料に根ざして存在するからこそ、まさに〈いま——ここ〉に存在すると見なされるのである。

 質料によって存在するからこそ、作品は経年変化する。そうした経年変化は、その作品が一つの歴史のなかに置かれ、その歴史に居合わせる存在であることを意味する。ベンヤミンは、アウラのうちに、そうした「歴史的証言力」を洞察する。それに対して、複製された作品はオリジナルの歴史を継承しているわけではない。たとえその複製が、オリジナルとまったく同じ外観をしていたとしても、オリジナルの辿ってきた歴史はそこから抹消されてしまう。なぜならその歴史は、オリジナルの質料がもつ一回性に基づくものであり、複製はオリジナルと別の質料によって存在しているからだ。

 質料の経年変化がオリジナルの歴史性を支えている。これと似た構造を、NFTのうちに見いだすことはできる。たとえば、NFTはハッシュ値の記録を辿ることによって、そのデータの真正性を判定する。ハッシュ値は、一回一回の取引によって更新されるため、データの内容がまったく同一であったとしても、どのように取引されてきたかによって変化する。NFTにおいてオリジナルとされるデータは、このハッシュ値の軌跡の唯一性によって支えられているのだ。それは、ベンヤミンが洞察するところの、作品のアウラに対してその物質的構造がもつ歴史性が果たす役割に、ある意味ではよく似ている。

 しかし、結局のところ、ハッシュ値の軌跡は事物の歴史的証言力とは違ったものである。なぜならハッシュ値は、どこにも居合わせないからだ。たしかにハッシュ値には時間の経過を通じた唯一の連続性がある。それはどこかに存在するものではない。それが私たちに、一回しか生起しない〈いま——ここ〉を開示することはない。私たちはオリジナルなNFTを所有していれば、それをいつでも、どこでも見ることができるのである。

 それでも、NFTに注目することで、私たちはベンヤミンの思想に新たな知見を付け加えることができるのではないか。たとえば彼は次のように述べている。

  オリジナルのもつ〈いま——ここ〉的性質が、オリジナルの真正さという概念を形づくる。〔・・・〕真正さの全領域は、技術的————そしてもちろん技術的なものだけではない————複製の可能性を受けつけない。

 すなわちベンヤミンは、アウラを真正性という概念の条件として捉えている。しかし、仮にNFTがデータの真正性を保証しうる概念であるとしたら、私たちは彼の言を次のように修正する必要があるだろう。すなわち、オリジナルの真正性は、〈いま——ここ〉という特質なしに、技術的に成立させることができる。

 もちろんそれが、ベンヤミンの考えていた真正性とは異なる概念であることは、自明である。しかし、彼を参照することで初めて見えてくることがある。それは、NFTとは、アウラなき真正性の技術である、ということだ。」

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