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芸術新潮 2024年3月号 「生誕100年記念 特集  わたしたちには安部公房が必要だ」/安部公房『箱男』

☆mediopos3396  2024.3.5

安部公房の『箱男』が映画化され
今年公開されることになった

『箱男』は1973年に発表された小説だが
安部公房から石井岳龍監督(当時は石井聰亙)に
直接映画化の許可がおり
1997年に映画の製作が決定されたが
ドイツ・ハンブルグのクランクイン前日に
製作資金の問題でとん挫

その後も企画が立ち上がっては消えるなど
紆余曲折はあったものの
27年の時を経た安部公房生誕100周年の節目に
ドイツで開催中の「第74回ベルリン国際映画祭」で
ベルリナーレ・スペシャル部門出品作として
世界初上映が実現されたという

上映後の映画「箱男」記者会見
(石井岳龍監督、永瀬正敏、浅野忠信、佐藤浩市)を
YouTubeで見ることができるが

石井監督は
「27年前の出来事は非常に残念ではありましたが、
機が熟したというか時代が『箱男』に
追いついたという気がしています。
いままさに『箱男』の時代がきたと思っていて、私
自身は今回の映画化をとても気に入っています」
としている

主演の永瀬正敏は
27年前からこの作品に携わってきていて
撮影中止になる瞬間にも立ち会っているということもあり

「27年経って一度とん挫した映画がまた完成する
というのは世界でも稀にみる企画だと思っています。
監督の原作に対する思いの強さを感じましたし、
そのワールドプレミアを同じドイツでできるというのは
何とも言えないストーリーだな、と思っています」
と感慨深く語っている

映画は一般公開されていないために
どんな映画となっているのか
原作通りなのかどうかもわからないが

芸術新潮・2024年3月号の
「生誕100年記念 特集
 わたしたちには安部公房が必要だ」での映画紹介では

「「箱男」————、それは人間が望む最終形態、
 すべてから完全に解き放たれた存在。
 カメラマンの〝わたし〟(永瀬正敏)は、ある日、
街で偶然目にした箱男に心を奪われ、
自らもダンボールをかぶり、のぞき窓を開け、
ついにその一歩を踏み出す。
しかし、本物の箱男になる道は険しく、
数々の試練と危険が襲いかかる。」云々とある

安部公房の小説をよく読んでいたのは
『箱男』(1973年)が刊行された数年後頃のことだが
ふりかえってみれば
意識的にせよ無意識的にせよ
少なからず影響を受けてきたこともあり
公開されるのを楽しみにしている

さて『箱男』についてだが
上記の映画「箱男」記者会見のなかで
永瀬正敏をはじめ出演者が
箱男が箱の窓から外界を覗くというのは
現代においてはPCやスマホという「窓」から
世界を見ていることと通じているのではないか
という話がでていた

その意味でも27年という時間を経た後に
映画が完成したということには
現代だからこその意味がそこに生まれているともいえる

「芸術新潮 2024年3月号」の特集のタイトルに
「わたしたちには安部公房が必要だ」とあるように
他の数々の作品もふくめ
(少しばかり陳腐な表現にはなるが)
ようやく時代が安部公房に追いついた
ということもできるのではないかと思える

ちなみに安部公房の映画といえば
石井監督がインタビューのなかでも挙げているように
安部公房・脚本/勅使河原宏・の
映画『砂の女』を忘れるわけにはいかない

個人的にいえばその音楽を担当した
武満徹の音楽は何度聴いたかしれないほどだ

石井監督はその音楽について
「音楽なのか音響なのか。
空白を響かせるとでも言えばいいか、
音がない時の方が雄弁に語っていて、
何もないエネルギーが充満しています。」
と語っている

映画『箱男』の音楽に関する記載は
現状ではないが気になるところでもある

■芸術新潮 2024年3月号
 「生誕100年記念 特集 わたしたちには安部公房が必要だ」
 (新潮社 2024/3.5)
■安部公房『箱男』(新潮社 1973/3 文庫 2024/2)

*(「芸術新潮 2024年3月号」〜「巻頭」より)

「未来は、現在からする価値判断をこえ、〈断絶の向こうに、「もの」のように現れる〉だろう————日本最初のSF小説とされる『第四間氷期』のあとがきで、作家はそう述べています。20世紀の渾沌を縦横無尽に漕ぎ渡り、人間と社会をめぐって、深い洞察の言葉をつむぎ続けた安部公房。その作品世界は、悪夢のようでありながら笑いに満ち、悲惨でありながら生のエネルギーに溢れています。そう、わたしたちには安部公房が必要なのです。」

*(「芸術新潮 2024年3月号」〜
 石井岳龍監督インタヴュー「映画『砂の女』は、もはや世界遺産です」より)

「安部公房と勅使河原宏という稀代の才能が出会い、1960年代に生まれた4本の長編映画。製作決定から27年の時を経て、映画『箱男』をついに完成させた石井岳龍がその魅力を熱く語る。」

「————映画『箱男』の完成、おめでとうございます。

 ようやく肩の荷が下りました。32年前に安部公房さんにお目にかかって映画化のOKをもらったものの、約束を果たせていないのがずっと気になっていました。まずお願いの手紙を出して、それから新宿の京王プラザホテルで会ってもらえることになって。ずいぶん長くお話をして、最終的に「まかせる」と言っていただきました。僕の映画も『逆噴射家族』と『ノウバウテン 半分人間』を見て非常に気に入ってくださったようで、「娯楽にしてくれ」というのが安部さんのリクエストでした。

 ————もともと安部公房のファンだったのですか。

 文学は苦手なほうだったんですけれど、詩やSFは好きだったので安部さんの短篇や、筒井康隆さんなんかはずいぶん読みました。僕の馬合は、映画になるかどうかという視点でしか小説を読めないので、かなり偏った読み方をしているとは思いますが、安部さんに会う3〜4年くらい前から、『箱男』はどうしてもやりたいよ思って構想していました。

 ————監督は著書『映画制作と自分革命』の中で、安部公房が脚本を書き、勅使河原宏が監督した映画、とりわけ『砂の女』を非常に高く評価していらっしゃいますね。

 (・・・)
 僕は『砂の女』は日本が誇る世界遺産的な映画だと思っています。」

 ————武満徹の音楽もすごいですね。

 音楽なのか音響なのか。空白を響かせるとでも言えばいいか、音がない時の方が雄弁に語っていて、何もないエネルギーが充満しています。量子力学の最果てのような世界ですね。量子力学は、近年注目される物理学の分野ですが、最近思うのは、安部さんは量子力学的なものの見方、つまり極端なミクロの世界に行って、ものすごく遠いところから世界の秘密の一旦を炙り出していたのだということ。もともと医学部を出ていて理系的なものの見方をする方で、作品においてもとことん緻密な構成を作り上げます。一見ニヒルでアンチヒューマンな態度に思えるかもしれませんが、ただ、そこまで行ってはじめて見えてくる人間の心の穴もある。安部さんの根底にあるものは、人間に対する深い愛と、強靱なヒューマニズムだと僕は思っています。
 僕は、安部さんと勅使河原さんはともに詩人だと思っているんですよ。実際に詩を書くかどうかにかかわらず、詩人的な目で世の中を見ているということです。ふつうなら見えないもの、聞こえない音が、彼らには見えてしまうし聞こえてしまう。そしてそれを表現せずにはいられない。」

*(「芸術新潮 2024年3月号」〜
  「いま読みたい 安部公房ブックガイド10 6 箱男」より)

「『箱男』の刊行は、一つ前の長編『燃え尽きた地図』から6年後。長編と言っても分量は400字詰め原稿用紙にして300枚足らず。しかし、書き潰しは3000枚に及んだと言い、安部ねりさんは、嵩が1メートルほどもある原稿用紙の束を庭で燃やすのを見たそうです。演劇活動による多忙に加え、執筆そのものも試行錯誤を繰り返し、困難を極めたことがうかがえます。

 この小説は、〈ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱〉を頭からすっぽりとかぶった箱男についての記録というふれこみで始まります。ただ、元カメラマンである箱男の〝ぼく〟がノートに記した手記だと思って読みすすめていくうちに、明らかに他の人物が書いたのだろう文章が入り混じり、新聞記事の引用もあれば、唐突なエピソードの挿入もあるといった具合で、現にいま読んでいるノートを書いた主体が誰で、誰に読ませようとしているのかが、だんだんよくわからなくなる。

 錯綜した語りの向こうに、それでもおぼろげに浮かび上がってくるのは、戦争中に麻薬中毒になり、今は廃人同前の軍医殿とその妻、軍医殿のかつての従卒で軍医殿に代わって医院を切り回す二世者、元美術モデルの見習看護婦といった面々の複雑な男女関係と、そこに巻き込まれた〝ぼく〟の看護婦に対する絶望的な愛の物語らしきものです。1970年代の世相的な雰囲気ともマッチしたのでしょう、難解にもかかわらずよく売れたそうです。

『箱男』には安部公房自身が撮影した8点の写真が収録されています。〝ぼく〟は元カメラマンという設定ながら、これらの写真は挿絵的に機能しえいるわけではなく、テキストの流れとは別に、もう一つ別のイメージを成立させるような作りですね。

 写真のうち、1970年の万博会場で撮られたという1点には、〈見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある〉云々の詩的なキャプションが添えられています。箱の窓から外界を覗く箱男(たち)を主人公にした本作において、「見る/見られる」の関係性が重要なテーマであることはあきらかで、これまでさまざまに論じられてきました。加えて、書くことの身体性と、それにともなう時間の問題も、表に出てきているのではないかと思います。

 小説における身体性のリアリティとは、書く行為に他なりません。ノートというメディアの利用は、初期の『終わりし道の標べに』や中期の『他人の顔』、また『箱男』に続く『密会』でも見られますが、それらが語りの真実性を担保することに力点を置いているように見えるのに対し、誰が誰に向けて書いて居るのかももはやわからない『箱男』で前面に出ているのは、紙に字を書きつける身体の動きの時間そのもののように感じられます。『箱男』執筆の時期、安部は俳優の身体性を前提に、新しい演劇のあり方を追求していたわけで、そのあたりの重なりも興味深いところです。」

*(「芸術新潮 2024年3月号」〜
  MOVIE「映画『箱男』がついに完成、公開へ!」より)

「「箱男」————、それは人間が望む最終形態、すべてから完全に解き放たれた存在。
 カメラマンの〝わたし〟(永瀬正敏)は、ある日、街で偶然目にした箱男に心を奪われ、自らもダンボールをかぶり、のぞき窓を開け、ついにその一歩を踏み出す。しかし、本物の箱男になる道は険しく、数々の試練と危険が襲いかかる。〝わたし〟を付け狙い、箱男の存在を乗っ取ろうとするニセ医者(浅野忠信)、すべてを操り箱男を完全犯罪に利用しようと企む軍医(佐藤浩市)、〝わたし〟を誘惑する謎の女・葉子(白本彩奈)・・・・・・。
 (・・・)映画は2月15日〜25日の第74回ベルリン国際映画祭でワールドプレミアを迎えた。同映画祭のアーティスティックディレクター、カルロ・シャトリアンは、この映画に石井監督ならではのクレイジーなヴィジュアルとユーモアのセンスが健在であることを賞賛する。寂寥に満ちた荒涼たる詩情もまた素晴らしい。
 ————果たして〝わたし〟は本物の「箱男」になれるのか。」

*(安部公房『箱男』より)

「これは箱男についての記録である。
 ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。
 つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。」

「「覗くことには馴れっこだけど、覗かれることには、まだ馴れていないんだ・・・・・・」
 贋箱男が、ゆらりと揺れた。いちど大きく斜め前に傾いてから、思い掛けない身軽さで立ち上がった。」

「「白状するよ、ぼくは偽物だったんだ。」
 「もう黙って・・・・・・」
 「でも、このノートは本物なんだよ。本物の箱男からあずかった遺書なのさ。」

*(安部公房『箱男』(文庫)〜平岡篤頼「解説」(昭和五十七年九月、文芸評論家)より)

「現代はカメラ社会であるから、恐らく一度は誰でも経験したことがあるであろうが、盛り場などに出かけて、色とりどりの看板や表情が氾濫する街頭のスナップ写真をとろうとすると、たまたま視野にはいった通行人や店員が憤然として脇へ飛び退き、素人カメラマンを睨みつけたりして、いわれのない後ろめたさを感じさせることがある。ことに相手が威勢のいい男女だったりすると、なにを失敬なことをするかと言いがかりさえつけて来かねない。

 安部公房の『箱男』の内側へ一歩踏み込もうとするためには、この後ろめたさの感覚を手がかりにするといい。覗き窓に半透明ビニールを垂らしたダンボールを頭からかぶり、なかに懐中電灯や食器セットや手鏡などの小道具をつるして街をうろつくこの男が、最初カメラマンであったという事実は偶然ではない。カメラマンと言っても、ポートレートとか風景ではなく、女性の下着とか公園での情事とかの盗み撮り専門のカメラマンだったのであろう。

 見られずに見ること。誰のなかにもいくらかはあるこの欲求が昂じて、この小説の主人公はすすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りしたあげく、ついに箱男になったのである。

(・・・)

 箱男とは果敢にいっさいの帰属を棄て、一方的にコミュニケーションを断ち切り、ひとりで生きることを選んだ人種なのだ。そんな大それた企てが安易で安穏であるわけがない。」

「考えてみればわれわれ現代人は、隅々まで約束事や習慣や流行や打算に支配され、その上、この小説の主人公がかつてそうであったように、「ひどいニュース中毒」に罹っている。「自分で自分の意志の弱さに腹を立てながら、それでもなくなくラジオやテレビから離れられない。」もしもそういうものをすべてかなぐり捨てたら、世界はどう見え、われわれはどんな存在になるだろうか。風景が均質になり、いままで大切に思っていたものも、無価値と思って無私してきたものも、同等の価値をもって目にはいってくる。それと同時に、こちらの方向感覚、時間感覚も麻痺し、われわれ自身でなくなって、「贋のぼく」が現れる。

 それが不幸な状態であるか幸福な状態であるかを問おうとするのも、すでに市民感覚である。箱男にはそのような問すら存在しなくなり、すべすべした女の白い尻もマンホールの蓋も等価値になって、見飽きることのない風景が、覗き窓の向こうに展開する。その先に「別の世界への出口」すら垣間見える。

 箱男になることによって、覗き屋や認識者へと変貌するのである。箱男になることによって、彼ははじめて自由な「ぼく」となる。それが、この小説の冒頭で、「これは箱男についての記録である」以下の数行を書きはじめた時の彼の置かれた地点である。自由なはずの彼のそんな「ぼく」が「贋のぼく」とならざるを得ない経過に、この小説の全体のストーリーが収まっているとさえ言える。」

「従来の小説では、人物が作者から独立して行動しはじめたり、因果関係が作者の主観を越えて厳密に作動するのが傑作の要因と考えられてきた。その時、小説が言葉で書かれた記述で成り立っているという、文学としての根本的性質がなおざりにされてきた。

 それにたいして、『箱男』では、「見る」ことが「見られる」ことを呼び、「ほんもの」が「贋物」を誘発する。しかも相互の役割はたえず交換されるから、どちらのほうが優位ときめることもできない。ほとんどそれは「昼」と言えば、「夜」、「男」と言えば「女」、「白」と言えば「黒」と、絶えず対になることばを誘い出す言語そのものの自律的な運動の発現に等しい。それだからこそ、この小説のなかに展開されているのは、箱の覗き窓から見た外の光景ではなくて、すべて箱の内側にシルされた落書きとなる。現在進行中の「物語」となる。

 そこに吹き荒れているのは、フィクションの熱風である。だが、その「物語」を記録してゆく箱男とは誰なのか、ということになると、現代小説における作者の位置について誰でも多くのことを思いまぐらさずにはいられないはずである。」

*(「映画『箱男』オフィシャルサイト」〜「INTRODUCTION」より)

「「箱男」は、その著作が世界二十数か国に翻訳され、未だに熱狂的な読者を世界中に持つ日本を代表する作家・安部公房が1973年に発表した小説であり、代表作の一つ。人間の自己の存在証明を放棄した先にあるものとは何か?をテーマに、その幻惑的な手法と難解な内容の為、映像化が困難と言われていた。幾度かヨーロッパやハリウッドの著名な映画監督が映画化を試みたが、安部公房サイドから許諾が下りず、企画が立ち上がっては消えるなどを繰り返していた。
そんな中、最終的に安部公房本人から直接映画化を託されたのは、『狂い咲きサンダーロード』で衝撃的なデビューを飾って以来、常にジャパン・インディ・シネマの最前線を駆け抜けてきた鬼才・石井岳龍(当時は石井聰亙)だった。

そして1997年に製作が決定、石井は万全の準備を期し、ドイツ・ハンブルグで撮影を行うべくドイツの地に降り立った。ところが不運にもクランクイン前日に、撮影が突如頓挫、撮影クルーやキャストは失意のまま帰国することとなり、幻の企画となった。
あれから27年。奇しくも安部公房生誕100年にあたる2024年、映画化を諦めなかった石井監督は遂に『箱男』を実現させた。しかも宿命のドイツでワールドプレミアを迎えるという最高のシナリオで。主演には27年前と同じ永瀬正敏、更に永瀬と共に27年前も出演予定だった佐藤浩市、世界的に活躍する浅野忠信と日本最高峰の俳優陣が集結。数百人のオーディションで抜擢された白本彩奈も加わった。舞台は整った。ベルリン国際映画祭で映画『箱男』は遂に解禁となる!!」

◎映画『砂の女』(監督:勅使河原宏 音楽:武満徹)
 Woman in the dunes (砂の女 Suna no Onna) 1964

◎映画『箱男』オフィシャルサイト

◎【映画「箱男」記者会見 世界初上映後@ベルリン】27年越し完成!石井岳龍監督、永瀬正敏、浅野忠信、佐藤浩市


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