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松村圭一郎(連載)「海をこえて 8.「人の移動」という問い」(群像)/『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』

☆mediopos3414  2024.3.23

文化人類学者の松村圭一郎による
連載(群像)「海をこえて」の第八回は
「「人の移動」という問い」

ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国では
「移民」「難民」の問題が深刻化し
「「不法移民」を第三国に移送する計画は、
すでにイギリスやイタリアで
実現に向けて動きはじめている。」

遅かれ早かれ日本でも
それに似た状況が起こり得るだろう

フランスでの状況を例にとれば

「右派にとって、移民を制限することが
国や国民を守ることであり、
「フランスらしさ」を保持する施策となるのに対し

「左派」にとっては
「移移民を排斥すること自体が
フランスの国歌理念に反しており、
「フランスらしさ」を損なうものである」という

どちらも「フランスらしさ」を目指しながら
まったく逆の立場がとられている

「移民」「難民」の問題には
さまざまな思想や利害が絡み合っているため
単純にとらえることはできないが

松村圭一郎はその問題について考えていくにあたり
数万年の人類史をたどりなおしながら
「人類にとって「移動」とはどんな意味をもってきたのか」
に光を当てる『万物の黎明』の示唆を紹介している

著者の「グレーバーらは、
人類学の研究対象となってきた狩猟採集民社会など
「平等主義」とされてきた社会で、
平等よりも重要だったのは
自律的に生きられる自由だったと指摘し」
「なかでも「移動する自由」を最初に据えている」

「そしてこれらの自由が失われてきたことが、
社会が固定的な政治体制に「閉塞」してきた
原因ではないか」

「固定的な支配形態が出現し、
それが唯一のあり方だと考えられるようになった背景には、
人びとの社会的世界がますます偏狭になり、
文化や階級や言語といった境界線に
包囲されるようになってきた歴史的過程がある」とし

かつては
「みずからの環境を離れたり、移動したりする自由」
「他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由」
「まったくあたらしい社会的現実を形成したり、
異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由」は
「実際にそうできるという実質的な自由だった」
というのである

松村圭一郎は
そうした『万物の黎明』からの示唆を受け
ヨーロッパでの移民をめぐる論争から距離をとりながら
「人類史における「人の移動」」に目を向ける

そうすることで
「人の移動は「国家」という問いそのもの」だ
ということに思い至る

「移民への恐怖を煽る言説も、寛容な受け入れを説く立場も、
いずれも国民国家という
人間を土地に縛りつける制度を前提にしている」

そして「自由に移動することは、自律的な生をもたらし、
異なる社会のあり方を試し、
社会を変化させる土台になりうる」がゆえに
「人の移動は「問題」というよりも、
むしろ「可能性」ですらある」というのである

その視点からいえば
現在起こっている問題の根っ子には
まさに「国民国家」という制度がある

少子化による人口減少に対して
移民を増やすことをその対策としようとするとき
「国民国家」はそこにさまざまな矛盾を抱えることになるのだ

現状の日本の政治にしても
国民を積極的に減少させる医療体制を促進している
というような不可解な状況さえ生みだしながら
移民への優遇施策を行おうとしていたりもする
そこにはさまざまな力や利害が交錯しているのだろうが

『万物の黎明』からの示唆のように
「国民国家」的な視座からは距離をとりながら
「人の移動」ということの「問題」と「可能性」を
長いスパンで考えることが求められているのだろう

おそらくアナーキズムの根源にもその視点がある
いうまでもなくそれはほんらい
「イズム」などというものではなく
「国民国家」的な発想から
自由になろうとする衝動にほかならない

■松村圭一郎(連載)「海をこえて 8.「人の移動」という問い」
 (群像2024年4月号)
■デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
 『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)

**(松村圭一郎(連載)「海をこえて 8.「人の移動」という問い」より)

*「海をこえて押し寄せる移民・難民にどう対応すべきか。ヨーロッパ諸国が揺れている。

 ドイツでは、一月二〇日から二一日の週末にかけて、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)の移民政策への抗議デモが続き、全国で数十万人の市民が参加した。AfD幹部が外国出身者の国外追放を検討する会合に出席したと報じられ、移民排斥を掲げて支持を広げるAfDへの批判が高まっていた。会合で議論されたという「同化しない移民」などを北アフリカに追放しようとしたナチスの計画を想起させるものだった。

 一方、「不法移民」を第三国に移送する計画は、すでにイギリスやイタリアで実現に向けて動きはじめている。」

**(松村圭一郎(連載)「海をこえて 8.「人の移動」という問い」
   〜「何が争点かのか?」より)

*「国民連合のような右派にとって、移民を制限することが国や国民を守ることであり、「フランスらしさ」を保持する施策となる。しかし左派にしてみれば、移民法反対デモで掲げられた文言のように、移民を排斥すること自体がフランスの国歌理念に反しており、「フランスらしさ」を損なうものである。同じものを目指しながら、まったく食い違っている。一致点を見出すのは困難だ。

 移民の制限や受け入れといった「国境管理」は、国家にとって重要な課題となる。だからこそ、国民の関心を集めるトピックになりやすい。だが「人の移動」という問いを考えるには、国家の移民政策をめぐる論争だけを追いかけていても、おそらく出口はみえない。もっと根源にさかのぼり、人類にとって「移動」がどんな意味をもってきたのか、とらえる必要がある。

 そもそもヨーロッパ諸国は、長い歴史のなかで、たび重なる人の移動にともなう敵対と混交によって形成されてきた。人の移動こそが、ヨーロッパに限らず、人類の文化的な多様性と共通性を生み出してきたとも言える。」

**(松村圭一郎(連載)「海をこえて 8.「人の移動」という問い」
   〜「自律的に生きるために」より)

*「人類にとって「移動」とはどんな意味をもってきたのか。この問いにあらたな光をあてたのが、人類学者デヴィッド・グレーバーと考古学者デビッド・ウェングロウの共著『万物の黎明』(光文社、酒井隆史訳)だ。

 グレーバーらは、人類学の研究対象となってきた狩猟採集民社会など「平等主義」とされてきた社会で、平等よりも重要だったのは自律的に生きられる自由だったと指摘した。なかでも「移動する自由」を最初に据えている。

「遠方の地で歓迎されることがわかっているうえで、みずからの共同体を放棄する自由、季節に応じて社会構造のあいだを往復する自由、報復をおそれず権威に服従しない自由。たとえ現在ではほとんど考えることもできないにしても、わたしたちの遠い祖先にとって、これらはすべて自明であったようだ」(一四九−一五〇頁)

 そしてこれらの自由が失われてきたことが、社会が固定的な政治体性に「閉塞」してきた原因ではないか。グレーバーらはそう論じている。

 私たちは、技術の進歩とともに、人間はより多く、より遠くに移動するようになったと信じてきた。だが人類学や考古学の知見は、数万年にわたる人類の歩みが、まるで正反対だった可能性を指し示している。

「すなわち、人類の歴史のほとんどを通して。移動する人間————すくなくとも長距離ないし遠隔地に移動する人間————の数は減少していったのである。もし時間の経過とともに何が起きたかを眺めてみるならば、社会的諸関係の作動するスケールはどんどん大きくなるのではなく、実際にはどんどん小さくなっていくのだ」(一三九頁)

 人類学が研究してきた東アフリカのハッザやオーストラリアのマルトゥなどの狩猟採集民社会は小規模ながら、その構成はきわめて「国際的」だった。親族などの近親者は平均一〇%ほどで、大国メンバーが遠方からの流入組であった。同一言語を共有していなかったとすら考えられている。
 現代において限られたテリトリーに封じ込められる以前の数千年にわたり、諸集団は数千キロ離れていても、地域組織を共有していたと考えられている。」

**(松村圭一郎(連載)「海をこえて 8.「人の移動」という問い」
   〜「なぜ社会は閉塞したのか?」より)

*「『万物の黎明』は、なぜ私たちが近代の国民国家のような単一の政治体制しか選択肢はないと信じるようになったのか、なぜ住む場所や社会組織を自在に変化させる自由を失ってきたのか、数万年の人類史をたどりなおしながら問いかけている。

 固定的な支配形態が出現し、それが唯一のあり方だと考えられるようになった背景には、人びとの社会的世界がますます偏狭になり、文化や階級や言語といった境界線に包囲されるようになってきた歴史的過程がある。グレーバーらは、社会を変化させることを可能にしてきた土台に人類の移動性の高さがあったと指摘する。

「かくも多数の狩猟採集社会が混在していたことは、故郷で自由が脅かされたから、手っとり早く逃げだすなど、個々人が日常的にさまざまな理由で移動していたことを示唆している。このような文化の多孔性[抜け穴がたくさんあること]はまた、季節的な人口動態の変化にとっても必要である。これによって社会は、一年のある時期には巨大な集団を形成し、残りの時期には多数の小さなユニットに分散するといったふうに、異なる政治的組織法を周期的に取り替えることが可能になっただろうから」(一四一頁)

(・・・)

 ところが移動性が減り、文化的な境界線が硬化し増殖するようになると、政治体性を変化させる可能性は縮小する。グレーバー等は、移動の自由が担保されていることで、強固な支配形態の出現が阻止されてきたと考えている。

(・・・)

 みずからの環境を離れたり、移動したりする自由、他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由、まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由。グレーバー等は。この三つの基本的な自由は、抽象的な理想や形式的な原理ではなく、実際にそうできるという実質的な自由だったと指摘する。

 だが、この三つの基本的な自由は徐々に後退してきた。

(・・・)

 なぜそうなったのか? わたしたちはどうして閉塞してしまったのか? この『万物の黎明』の問いかけは、「人の移動」をとらえる枠組みを大きく転換させている。」

*「ヨーロッパで白熱する移民をめぐる論争の動向を注視しながらも、そこから距離をとり、人類史における「人の移動」に目を向けてみる。すると、いま目の前で起きていることがまるで違ってみえる。移民への恐怖を煽る言説も、寛容な受け入れを説く立場も、いずれも国民国家という人間を土地に縛りつける制度を前提にしている。その先に問題の「解決」はあるのだろうか。

 「わたし」は何者なのか? 現在、それを証明する権限は国家にある。国境をこえれば、その人が合法かどうか、移動先の国が判断する。その恣意的な判断ひとつで、何も罪を犯さなくても、人間が「不法」な存在になる。有用な「労働力」なのか、「難民」なのか、十分な資産があるのか。富裕層が自由に居住する国を選べる一方で、命をかけて海をこえた人びとは「不法移民」とされる。この構造には、直視すべき闇がある。人の移動は「国家」という問いそのものなのだ。国民国家を所与の前提にはできない。

 自由に移動することは、自律的な生をもたらし、異なる社会のあり方を試し、社会を変化させる土台になりうる。だとしたら、海をこえる人の移動は「問題」というよりも、むしろ「可能性」ですらある。

 エチオピアの村から海外に出稼ぎに行く女性たちの歩みに、その「可能性を見いだす。人類の長い営みの延長線上に、いま生きている現実の人びとの姿を重ねる。それが、この連載が目指そうとしている地平である。」

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