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真山仁「秘すれば花————玉三郎の言葉 連載第3回 第二章 鉛色の街」(文學界 2024年1月号)/泉鏡花「山吹」

☆mediopos3319  2023.12.19

真山仁「秘すれば花――玉三郎の言葉」の連載
第3回は「鉛色の街」
連載についてはmediopos3296(2023.11.26)で紹介済

玉三郎は物心ついたときから
「世界は鉛色に塗りつぶされている」と感じていた

幼稚園に通い始めることになった
その翌日から行くのをやめる
「みんながお揃いの服を着て、
折り紙やら砂遊びやら同じことをしている世界の
どこが、楽しいんだろう。」と

孤独な少年だったが
孤独が苦だったわけではない
「馴れ合うよりも、一人で過ごす方が好きだった」

夜空の星を眺め
「「あの星の向こうに何があるんだろう。
 きっとここより素晴らしい場所なんだろうなあ。
 宇宙って良いなあ」
 そんな思いをいつも心に呟きながら、
宇宙への憧れを募らせた。」

玉三郎は常に
「自分の中に、宇宙を持とうと思うようになった」という
そうすることで
「己が消え去り、「表現」だけが輝きだした時、
それは芸術へと昇華する。」
それは「自分が生きていることを忘れる宇宙を持つ」
ということ・・・

真山仁はこの章の終わりで
玉三郎の愛する泉鏡花の『山吹』の
最後の台詞から引用している
画家(島津正)の台詞である

〝うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ〟

この台詞には少し続きがあり
その台詞に重要な意味があると思われる

〝ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。
 (・・・)いや、仕事がある。〟

この作品の主な登場人物は以下の三人
上記の台詞の画家(島津正)
縫子(小糸川子爵夫人)
辺栗藤次(人形使い)

縫子は小糸川家とうまくいかず
画家の島津を追って家を出るが
島津は立ち去ってしまう
そこで縫子は静御前の繰り人形に仕えるという
人形使いの老人・藤次に出会う

その後あらためて島津に出会い
ともに生きることを頼むが煮えきらず答えない
叶わないと悟った縫子は老人とともに生きようと
結局「世間へ、よろしく。・・・・・・さようなら」と
島津の前から立ち去る・・・

そのときの台詞が上記である

人形使いは若い時に何度も女を不幸にした過去があり 
静御前よりも美しい女に折檻されることで
罪がほろぼされることを長い間待ち望んでいた
行き場のない縫子もまた
世間から離れたところにこそ
真実に生きられることを知る・・・

この作品は歌舞伎などでよく上演されている
耽美な色濃い作品だというが
鏡花ならではの異様な話

三島由紀夫は澁澤龍彦との対談で
この作品を書いた鏡花を評し
「絵空事を書いているようでいて、
なにか人間の真相を知っていた人だ」としている

『山吹』は異界の物語ではなく
「現実」のなかで進む話である
現実のなかで仕事をしている島津よりも
人形使いの老人のほうが
「仕事」をしているといえるような「現実」

それはどんな「仕事」か・・・
「おれの身も、おれの名も棄て」て
はじめてできる「仕事」である

まさに
「自分が生きていることを忘れる宇宙を持つ」
そうすることで可能になる「仕事」

祈りでも救済でもある
己を「昇華」しようとする「仕事」・・・

■真山仁「秘すれば花————玉三郎の言葉
     連載第3回 第二章 鉛色の街」
 (文學界 2024年1月号)
■『泉鏡花』(ちくま日本文学011 2008/3)

(真山仁「秘すれば花」より)

「世界は鉛色に塗りつぶされている。こんなところで楽しく死んでいられない————:
 シンイチは、物心ついたときから、ずっとそう感じていた。
 理由はわからないけれど、ただこの世が怖いのだ。
 終戦から五年目に、シンイチは東京の大塚で生まれた。街は戦争の爪痕を遺しながらも、戦後復興の活気に溢れていた。
 なのに、シンイチは、希望の賑わいにすら息苦しさを感じていた。
 世界はこんなに憂鬱なのに、大人たちはいつも楽しげに蠢いている。
 シンイチには、それが不可解だった。
 そんな風に感じるのは、どうやら自分だけらしいと気づいたのは、幼稚園の入園式の日だ。
 母に手を引かれ、まっさらの制服を着て園の門を潜る。
 他の子どもたちは、晴れやかな笑みを浮かべているのに、シンイチ一人が、つまんない————。
 みんながお揃いの服を着て、折り紙やら砂遊びやら同じことをしている世界のどこが、楽しいんだろう。
 彼らを「さあ皆さ〜〜〜ん」と呼んでいる先生も、なんだか好きになれない。
 だから、翌日、シンイチは「幼稚園に行くのをやめた」。

(・・・)

 「幼稚園には、もういかない」
 きっぱりと言い切るシンイチを、母は何も言わずに受け止めた。
 いつも孤独な少年だった。
 だが、孤独が苦でなかかった少年でもあった。
 意味のない明るさは、嫌いだった。
 美しくないものは、嫌いだった。
 分からないものは、受けいれられなかった。
 馴れ合うよりも、一人で過ごす方が好きだった。
 そんなシンイチを、一人で過ごす時間が豊かにしてくれた。」

「まだまだ街の灯りも少ない当時の東京には、天気が良ければ無数の星が輝いていた。
 それを飽きもせずに眺め、想像力を膨らませた。
「あの星の向こうに何があるんだろう。
 きっとここより素晴らしい場所なんだろうなあ。
 宇宙って良いなあ」
 そんな思いをいつも心に呟きながら、宇宙への憧れを募らせた。
 恐ろしいこの世も、夜の闇に溶け込んでくれたら、感じないでいられるかも知れない。
 この世に息づいていないものが魅せる色彩、音、感触————。
 五感に語りかけてくるそれらは、幼いシンイチの最高の「瞑想」だった。
 その時こそ、シンイチは自分の存在を感じていられたのだ。」

(真山仁「秘すれば花」〜「玉三郎の言葉・壱 人生は、限りなく鉛色に近いブルー」より)

「玉三郎と出会った頃、よく話題に上ったのが、「死生観」だった。
「人生は辛いことばかり。限りなく鉛色に近いブルーだった。生きていることに、何の未練のない」
 衝撃だった。
 二〇代から女形の至宝と言われた俳優である坂東玉三郎が、「生きづらい」だって!?
 それは、あまりに恵まれすぎているからではないのか。
 そう返すと、彼は少年時代の「怖さ」を話し始めた。
「ずっと鉛色にしか見えなかった街。そこで楽しく暮らす人たち。何が楽しいんだろう。自分には、そこはかとない恐怖しかなく、ずっと息苦しかった」
 気づくと孤独が友達になっていた。ずっと独りで過ごす時間が続くが、それは苦痛ではなかった。それどころか森羅万象の神秘、花鳥風月の絢爛に圧倒されながら、夢中になった。
 その美しさを知れば知るほど、人間社会に暮らすのが辛くなった。
「人生を謳歌するという人がいるけれど、みんな人生に苦しんでいるのではないのだろうか。それを騙し騙し生きているのでは?」

(・・・)

 玉三郎は、その「苦しさ」に別の方法で対処した。
「何かに没頭して、我を忘れる」という方法だ。
「夕陽や星空を眺めていると、時間を忘れ、自分の存在も忘れていく。すると心が軽くなる」
 やがて、彼は常に「自分の中に、宇宙を持とうと思うようになった」という。
 表現するという行為に夢中になれば「忘我」の域に達する。己が消え去り、「表現」だけが輝きだした時、それは芸術へと昇華する。
 それを玉三郎は、「自分が生きていることを忘れる宇宙を持つ」と言い表した。
「宇宙」は、どんな人の心にもあるものだと、玉三郎は言う。
(・・・)
「誰もが、心の中の『宇宙』に気づくわけではない。そして、それは一つではないとも思う。だから、様々な挑戦や出会いによって、自分の中で眠っている『宇宙』を呼び覚ましたい。それがお客様の心にある『宇宙』を目覚めさせることにも繋がるのではないだろうか」
 玉三郎が愛して止まない泉鏡花の作品『山吹』にこんな台詞がある。

〝うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ〟」

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